とうやく390号(2011年1月号)学術欄

HOME > 学術欄

数学のある風景

 生命科学部生物情報科学研究室
 教授 小島 正樹



 一昨年1月に赴任して以来、生命科学部の数学の授業を担当しています。 「数学に強い生命科学のエキスパート」の養成を目指して日夜腐心していますが、高校までと違って、大学の数学はどこか抽象的でつかみどころがない、数学なんか勉強して将来どう役に立つの、という声もちらほら。もしかしたら読者の方も、「大学の数学は苦手だった」とか「大学卒業してからあまり数学使ったことないなあ」とか思われているかもしれません。 今回は、そんな大学での数学の授業風景の中から、何枚か印象的なスナップショットを切り出してお目にかけたいと思います。

例題1. アキレスと亀
 アキレス腱で有名な古代ギリシャの英雄アキレスは足も速かったらしいですが、このアキレスでさえも前方を(のろのろと)進んでいる亀を追い越せないというのが、「アキレスと亀のパラドックス」です。 古代ギリシャの詭弁家はその理由を次のように説明しました。
 「アキレスが最初に亀の居た場所に辿り着いたときには、亀はそれより前方に(ほんの僅かではあるが)進んでいる。そこまでアキレスがさらに進んだ時には、やはり亀は(もっと僅かではあるが)前方に進んでいる。これを繰り返して行くと、アキレスは亀に永久に追い越せない」
 もちろんアキレスは亀を追い越せますが、この詭弁を論破することができますか?
 話をわかりやすくするために、最初にアキレスの進む速さを秒速1m、亀の速さを秒速0.1mとして、最初にアキレスと亀は1m離れていたとします。

 1秒後にアキレスは1m進み、亀が最初に居た場所に来ます。 このとき亀は0.1m前方に進んでいます。更に0.1秒後にはアキレスは0.1m進み、このとき亀は 0.1m/s × 0.1s = 0.01m先に進んでいます。 次に0.01秒かけてアキレスは0.01m進むと、亀は 0.1m/s × 0.01 s = 0.001m前に居ます。 このときの時刻(1 + 0.1 + 0.01秒後)までにアキレスが進んだ距離は1 + 0.1 + 0.01 mです。 これを永久に続けて行くと、アキレスが進む距離は
   1+0.1+0.01+0.001+…=1+0.1+0.12+0.13+…
となることがわかります。
 ここで視点を変えて、t秒後にアキレスと亀が進む距離を方程式で表すことを考えてみます。 アキレスが最初に居た場所を x軸上の原点にとると、毎秒1mで進むのだから、t秒後の位置は x=1t で表されます。 一方、亀は最初は原点から1m離れた位置に居て毎秒0.1mで進むから、t秒後の位置は x=0.1t+1 で表されます。 アキレスが亀に追い付くのは、両者の進んだ距離が等しくなるときだから、1t=0.1t+1 を解いて 0.9t=1 より t=10/9秒後。 このときまでにアキレスが進んだ距離(当然亀が進んだ距離も等しい)は 1x10/910/9mとなります。

 大学で学ぶ「ベキ級数」(多項式の項数を無限個にしたもの)を使うと、分数関数1/1-x
   1/1-x=1+x+x21+…+xn+…
と表せます。この式に x=0.1 を代入すると、左辺は 1/1-0.11/0.910/9、 右辺は 1+0.1+0.12+0.13+… で、結局
   10/9=1+0.1+0.12+0.13+… (*)
となります。冒頭の詭弁家の説明で「これを繰り返して行くと、アキレスは亀に永久に追い付けない」というのは右辺で和を無限回足し合わせて行く様子を表しています。 但し、足し合わせて行く過程では、まだ(アキレスと亀が出会う距離の)10/9に達していないわけですから、要するにこの話の結論は、「アキレスは亀に追い付かない限り(永遠に)亀を追い越せない」という至極当たり前の話になります。 これが一見詭弁に感じるのは、(*)の右辺の無限和が 10/9 という有限の値になることではないでしょうか? ベキ級数という無限項の和がもつ威力と魔力です。


例題2. 対数なんて怖くない
 数学の授業をしていると、対数が苦手という学生が多々見受けられます。 そんなときに出すのがこの問題「2log26 はいくつ?」。 これが瞬間的に6と出て来なければ対数というものが分かっていない証拠。 高校の教科書をめくると「対数とは指数の逆関数で、y=ax のとき、x=logay と書く」とか書いてありますが、それは字面上の話。 直観的には「 22=4,2=6,23=8,… と眺めてみると、□を満たす数が2と3の間にあるはずだ。 それを log26 と書こう」というのが本来の発想で、従って 2log26=6 は自明というか、むしろこれが log26 の定義。 数学は理屈よりもむしろ感性で行うもの。「対数とは要するに、指数の累乗部分のこと」という感覚が重要だと思います。


例題3. 関孝和の業績
 江戸時代の和算の泰斗である関孝和の業績に行列式論があります。 その著書「解伏題之法」(1683年)は、クラメルの約100年前の出版です。
 二元連立方程式の解は、x=,y=となります。 この形をよく眺めると、分母は、連立方程式の係数のみから計算できる量であり、いま各係数を長方形に並べてのように書くと、「(左上の数)×(右下の数)−(左下の数)×(右上の数)」という計算規則によって得られます。 この計算規則をという記号で表すと、xの答の分子はちょうどという形で書けて、これが今日おなじみのクラメルの公式(1750年)です。 関は前著の「生尅第五」において、この2次の場合の「(左上の数)×(右下の数)−(左下の数)×(右上の数)」の計算規則を「斜乗」と呼び、3次の場合の斜乗として、今日の「サラスの公式」と全く同様の図を描いています(サラスは19世紀前半の人)。 線型代数の教科書だといかめしい印象を受ける公式も、我々の先達が300年以上も前に世界に先駆けてその論を展開していたということは、大いに誇ってよいことではないでしょうか?


例題4. 級数のちょっといい話
 次の級数を考えます。
   1-1+1-1+1-1+…
この級数の和を求めるのに、以下の3人が各々異なった解き方をしました。3人のうち正解は誰でしょうか?
 A:最初から2項ずつまとめて、 (1-1)+(1-1)+(1-1)+…=0+0+0+…=0
 B:第2項目から2つずつまとめて、 1+(-1+1)+(-1+1)+…=1+0+0+…=1
 C:級数の和をxとおくと、x=1-1+1-1+…=1-(1-1+1-…)=1-x 。すなわち x=1-x を解いて x=1/2
3人とも計算の仕方は間違ってなさそうですが、どうして3通りの答が出て来たのでしょうか? アキレスと亀のパラドックスもそうですが、無限を相手にすると既成の常識が次々と覆されます。 歴史的に無限級数の正しい理論をつくり上げて、これらの問題を解決したのはコーシーで、彼は以下の事実を見出しました。
 1.無限級数では計算の順序を勝手に変えてはならない(かっこの付け替えが許されない)
 2.無限級数はいつも収束する(和が存在する)とは限らない
つまりAとBの解き方は、かっこを勝手につけて計算の順序を変更している点が誤り。 Cでは予め級数の和が存在するものとしてxと置いている点が誤りです。 この級数を正しく計算するには、左から順々に和をとっていきます。
   1-1=0
   1-1+1=1
   1-1+1-1=0
   1-1+1-1+1=1
   ……………
これを繰り返して行くと、最初から偶数項まで足し合わせたときは0、奇数項まで足し合わせたときは1となって、ある決まった数に近付いてはいきません。 このことから、この級数には和が存在しないことがわかります。
 先に、数学では直観が重要と書きましたが、もちろん論理の厳密性も数学の重要な柱であって、あまり直観に頼りすぎると、このように痛いしっぺ返しを食らうことになります。


雑感 モル計算
 「最近の学生はモル計算ができない」というのは昔から教員同士で聞かれる話題ですが、「数学の方でモル計算くらいできるようにしてほしい」という声に対しては、私は異論があります。 「モル計算ができない学生は、数学というよりも化学の力が欠如している場合が多い」というのがその理由です。 モル計算を数学の問題として取り上げた場合、そこに登場するのは高々3桁程度の四則演算なのに対し、学生の悩みはむしろ立式の過程の方にあって、物質量(モル)や分子量、濃度といった化学量論の概念に十分に習熟していないことに起因していることが多いからです。 これが例えば「100mL中の50mg」と「50mL中の25mg」が同じであることが分からない、端的に言うとが同じであることが分からないのであれば、小学校で学んだ「比」が分かっていないということで数学の出番となりますが、私の経験した限りそこまで深刻なケースは稀です。
 先の「計算ができない」という嘆きは、例えば患者が「腹が痛い」と訴えているのと同じで、症状の原因を究明しない限り、根本的な解決は望めないと思います。


〈略 歴〉
1990年3月 東京大学理学部生物化学科卒業
1992年3月 東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻修士課程修了
1992年4月 日本学術振興会特別研究員(DC)
1995年3月 東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻博士課程修了
1995年4月 東京薬科大学生命科学部助手(分子生化学講座)
1999年10月 日本バイオイメージング学会奨励賞
2005年9月 同講師
2006年4月 同助教授
2007年4月 岩手医科大学薬学部准教授(構造生物薬学講座)
2009年1月 東京薬科大学生命科学部教授(生物情報科学講座)


ホームへ