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7. 研究例

7.5 Testosterone(TS)の動態研究

 TSは代表的な男性ホルモンである.TS は,存在量が微量(数 ng/ml プラズマ)なるが故に,その分析は専ら生物活性あるいは免疫活性を指標にして行なわれてきたが,これらの方法では内因性と外因性とを区別できない.また,TS の経口服用は無効といわれており,その理由として,吸収が悪い,肝臓で速やかに代謝を受けるの2つが挙げられていたが,従来の技術をもってしてはどちらの理由によるものか明確にできなかった.著者は,安定同位体の安全性と GC-MS-SIM の高感度性を利用すればヒトにおける TS の動態を追跡できると考えた.
 ステロイド化合物の安定同位体による標識は,1)3 または 4 位を C-13 で標識する,2)重水で処理して骨格内の活性メチレン基を交換的に H-2 標識する,3)ステロイド骨格内に炭素-炭素二重結合をつくり,これを重水素で接触還元する方法のいずれかによって行なわれていた.しかし,これらの方法では同位体濃度,標識の安定性において疑問が残る標識体しか得られない.一方,19 位のメチル基は TS の代謝において安定であることが C-14標識体を用いて既に明らかにされている.19 位のメチル基を3 個のH-2で標識する方法を開発した.本標識法の key stepは,エストロンから8工程を経て合成されたエポキサイドに重水素メチルマグネシウムブロマイドを作用させる工程であった.この方法によって得られる TS-d3 の同位体純度は極めて高い(d3体: 97.8%)ので質量分析において標識体,非標識体相互の貢献を補正する必要は全くなかっ た.
 次に,TS-d3 を内部標準としてプラズマ中の TS を精確に定量する方法を確立した.TS-d3 の一定量をプラズマに加えて抽出し,トリフロロアセチル(TFA)誘導体とし,これを GC-MS-SIM に注入し,m/z 480 (TS-TFA)と 483(TS-d3-TFA)でモニターした.プラズマ中の TS の量は,内部標準として添加した TS-d3の量と,m/z 480 と 483 のイオン強度の比から算出された.現在,多くの生体微量成分や薬物がRIAで臨床分析されている.RIA は,確かに簡便な方法ではあるが,交叉反応の結果類似成分まではかりこんでいる恐れがある.これに対して,安定同位体標識体を内部標準にして GC-MS で定量する方法には,GC の保持時間による分離と m/z による選別を同時に行なうので選択性は一段と高くなり,内部標準はキャリアーとしても働くので目的物の回収率は向上し,しかも回収率を自動的に補正できるなどの長所があり,精度も著しく向上した.プールドプラズマで検定したところ,1 ml 当りのTS 量は,本法では6.22 ng(C.V. 3.15 %),RIA では6.34 ng(13.38 %) で,C. V.値に大きな差があった(1).TS はスポーツ選手が使う可能性のあるドーピング剤の1つである.TS に対するドーピング試験は RIA で検査されていたが,カルガリー冬季オリンピック以降はこの方法で実施されている.
 内分泌ホルモンの分泌量には日内変動があるといわれているが,RIAの精度では確認することができなかった. Fig.1は TS の日内変動を精確に捉えた最初の例である.
 TS-d3 20 mg を経口服用し,プラズマ及び尿中の内因性及び外因性の TS,及びその主要代謝物であるアンドロステロン,エチオコラノロンを二重希釈分析法の原理により定量した.プラズマ中の内因性及び外因性 TS の経時変化の一例を Fig. 2 に示す.この実験によって,経口服用された TS は少量(最高時でも 2.45 ng/ml)ではあるがプラズマに入っていること,少量はそのままの形で大部分は代謝物の形で尿中に排泄されることが明らかにされた.もう1つ興味深い知見は,外因性TSは内因性TSと比較的短時間に完全に混合し,それ以降は同じ挙動をとっていることである.TS の経口服用が無効である理由は,TSが肝臓によって速やかに代謝されることによることが証明された(2).
 臨床では,TS propionate が TS の筋注剤として用いられている.TS-d3 propionate 25 mg を成人男子に筋肉注射し,TS, TS-d3及びTS-d3 propionate のプラズマ濃度を測定した.内因性TS の量はほとんど変化しなかったが,TS-d3 濃度は48時間にわたって生理的濃度以上に維持されることが証明された(3).

(1) S. Baba, Y. Shinohara, Y. Kasuya: J. Chromatogr., 162 529(1979).
(2) Y. Shinohara, S. Baba, Y. Kasuya: J. Clin. Endocrinol. Metab., 51, 1459(1980).
(3) M.Fujioka, Y. Shinohara, S. Baba, M.Irie, K.Inoue: J. Clin. Endocrinol. Metab.,63,1361(1986).

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