2. 基礎講座 |
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2.4 薬物動態研究におけるトレーサー法 |
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トレーサー法とは, RI または安定同位体で標識した薬物を用い,標識を指標にして薬物の動きを追跡する技術である.重要事項を挙げ,各種の手技を解説しておく. 希釈分析 dilution analysis トレーサー法による定量の基礎になっているのは希釈分析法である.RI トレーサー法でその原理を説明する.定量目的物質x mgを含む測定試料に,比放射能 s0の標識体a mg を加えてよく混合した後,定量目的物質を単離精製し,比放射能を測定したら s であったとすると,x は次式から算出される. x = (s0/s - 1)a これが希釈分析の原型(直接希釈分析法)である.この他,希釈分析には,標識体の量を求めるときの逆希釈分析法,比放射能が不明のときに適用する二重希釈分析法などがある.希釈分析法では,対象物の回収率は問題ではなく比放射能の比だけが問題になる.希釈分析は,生体試料中の生理活性物質の定量法として大きな期待をもって迎えられたが,比放射能の測定が案外厄介なことからあまり活用されなかった. 安定同位体標識体を内部標準とし,GC-MS-SIMで検出する方法が開発されてから希釈分析法が脚光を浴びるようになった.この場合目的物質の量は,非標識体と標識体由来のイオン強度の比と内部標準の添加量から算出される.同位体濃度の高い多重標識体は内部標準として十倍から百倍量添加することができるので,添加した標識体は内部標準としてのみならず担体としても働く.この方法の実験計画の立て方や利点を7.5 Testosterone(TS)の動態研究で解説する. RIトレーサー法における二重希釈分析法に代って,安定同位体トレーサー法では第2の標識体を使う便利な方法が用いられている.これについては同時投与法で解説する. 同位体効果と metabolic switching トレーサー法は,標識体は非標識体と同じ挙動をとることを前提にしているが,両体に差,同位体効果isotope effect が存在することがある.同位体効果は,放射能だけを指標にしていた RI トレーサー法では見逃されてきた現象であるが,両体を同時に追跡する安定同位体トレーサー法ではしばしば遭遇する.同位体効果は両者の質量比が大きい重水素標識体により顕著に現れる.GC や LC の保持時間では両者が分離可能なほど大きな同位体効果が観察されることがある.例えば,五郎丸らは fentanyl(静注,麻酔性鎮痛薬)を投与した患者の血清中濃度をその d19 体を内標にして 3 級アミンに特異的な表面電離型イオン検出器を用いてキャピラリー GC で定量している[S. Sera, T. Goromaru,T. Sameshima, K. Kawasaki, T. Oda: Radioisotopes, 47, 480(1998)]. 最も注意しなければならないのは代謝の過程における同位体効果である.一例を挙げる[K. Mimura, T. Furuta, S. Baba: Yakugaku Zasshi,102,458(1982)].Paeonol(2-hydroxy-4-methoxy-acetophenone)は漢方薬牡丹皮の精油成分である.経口服用すると,9 % は基質のまま,53 % は5位水酸化体,18 % は脱メチル体(resacetophenone)となって尿中に排泄される.Paeonolとそのメトキシd3体の等モル混合物を服用し,尿中代謝物の重水素標識体/非標識体の比を調べると,基質では1.00,5位水酸化体では1.39,脱メチル体では 0.31であった.すなわち,重水素化したために脱メチル反応は著しく遅延し, 5位水酸化が促進したことになる.このような現象を metabolic switching という.同位体効果による思わぬ失敗を避けるためには,本実験に先だって非標識体と標識体の等モル混合物を使い,同位体効果の有無や程度をあらかじめ調べておくことが大切である. ダブルトレーサー法 H-3 とC-14(またはS-35),C-14 とP-32の組合せのように,エネルギーの差を利用して両 RI 標識体を追跡する手法をダブルトレーサー法という.例えば、C-14 標識体をトレーサーとして代謝実験し,H-3標識体で代謝物の回収率を求める手法である.発想としては面白いが,2つの核種を精度良く分別測定することは難しいので実用性はなかった. 同時投与法 coadministration technique 非標識体と第1の標識体を同時に投与し,生体試料に標識原子数の異なる第2の標識体を加えてクリーンアップし,GC-MS 分析して非標識体と第1の標識体を定量する手法である.前者を生物学的標準biological standard,後者を分析的標準 analytical standard という.2種類の標識体を使う点ではまさしくダブルトレーサー法であるが,この方法はダブルトレーサー法とは呼ばれていない.次のような研究課題で最も信頼性の高い結果が得られる手法である. 生体利用率の研究 非標識体と第1の標識体を同時に2つのルート(静注と経口)からまたは2つの剤形(錠剤と水溶液)で投与し,生体利用率を解明する手法である.この方法はクロスオーバーに対して大きなメリットを有している.実例として,7.6 同時投与法による17α-methyltestosterone(MT)錠剤の生体利用率の測定を挙げる. 代謝率の測定 薬物Xが代謝物Mになり,Mが更に N に代謝されるルートとX が直接 N に代謝されるルートがある場合,X の非標識体とM の第1の標識体を同時に投与し,生体試料にMの第2の標識体を内部標準として加え,生体試料中の Mの分子種の動態を検討することにより X からMへの代謝率が測定できる.実例として,7.7 Imipramine(IP)のdesipramine(DMI)への代謝率の測定を挙げる. 連続服用中の薬物の体内動態の研究 同時投与法でしか解明できない問題である.実例として,7.4 フェニトイン(diphenyl hydantoin, DPH)の動態研究を挙げる. 疑似ラセミ体法 pseudoracemate technique 疑似ラセミ体法が,光学異性体の動態研究に最も有効な方法として,宮崎らによって提案された [H.Abuki,H.Miyazaki:Chem.Pharm.Bull.,24,2572(1976)].その骨子は,ラセミ体の片方を安定同位体で標識したラセミ体(疑似ラセミ体,pseudo racemate)を投与し,両光学異性体の動態を第 2 の安定同位体標識体を内部標準として GC-MS で定量することにある.実例として,7. 8 キラールインバージョンを伴う光学異性体,suprofen(SP)の動態研究を挙げる. イオンクラスター法 ion cluster technique RI 標識トレーサーの所在は放射能によって容易に検知することができるが,安定同位体は,別名沈黙の同位体 silent isotope ともいわれ,その所在を突き止めることは容易ではない.安定同位体標識トレーサーを検知する方法にイオンクラスター法がある.イオンクラスター法は,非標識体と標識体の等モル混合物を投与または服用し,強度のほぼ等しい MS ピーク(ion cluster peak)を指標にして代謝物を検索し,イオンクラスターの現れる位置及びイオンクラスターの間隔から代謝物の構造解析をする方法である.7.2 イオンクラスター法による代謝物の検索と構造解析で実例を挙げる. |
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