表紙  序・訳者序  第 I 章  第 II 章  第III章  第 IV 章  第 V 章  第 VI 章  第VII章  第VIII章  第 IX 章  参考文献

第 I 章

 

原 始 社 会 の 薬


アウグスチン・アルバッラシン

 

 医学史では文化人類学のように、原始人が薬を病気の治療に使っていたことをはっきりと記録している。ここでは、原始社会以前に文字を知らず、また技術が未開のまま生活していた先史時代人も、狭義の意味での原始社会人とともに「原始人」として取り扱った。歴史的にはギリシャ人が「野蛮人」といい、ルネッサンスの発見者たちは「蛮族」と呼び、啓蒙時代のルネッサンス人が「高貴な蛮人」と名づけ、フランスで「土着民」、ドイツで「未開人」という言葉がある。原始人は自然に依存した土着の人たちで、技術を駆使して自然を支配する文明人とは対極の言葉である。したがって、本文ではっきりと区別する必要があるときは具体例を示すが、歴史・時間・空間を超えて「原始人」と表現するつもりである。幸い歴史が証明しているように、また文化史の授業で「先原始文明(中国、インド、メソポタミア、エジプト、ギリシャなどの古代文明とは異なった先行文明)」と呼ぶものがあるので、図を使いながら当時の人類の実際の姿を理解することにする。これは先コロンビア・アメリカ文化においても同ようである。

 多少、平凡だが私の考えを述べてみよう。原始人は疾病について知識があり、薬を使っていた。第一の問題は、原始人が疾病と考えた内容を明らかにして、薬による疾病の治療法を解明することである。本書では技術論をとりあげるつもりはない。当時はまだ病因を検討するという知的要求がない時代なので、疾病とその処置に関する項目すべてを、技術以前のイデオロギーのもとでじっくりと考察すべきであろうと思う。

 前世紀の人類学者や社会学者にとって重要な概念、すなわち人類すべての文明は単純な姿から複雑な新しい文化に至るまで、整然と発達し進歩するという説はもう古くなってしまった。今日では地球に人類が誕生して以来、まったく異なる文明が共存していたことを認めるべきである。各文明の疾病観は、総じて下記の三つに分類できる。

 1.疾病を異質な要素の体内侵入と考える。

 2.疾病を精霊の喪失や脱出と考える。

 3.疾病を悪霊の仕業と考える。

 原始人はこうした三つの疾病観にしたがって、疾病と闘うために経験主義と魔術という二つの知的手段を使ったことは間違いないだろう。経験法は薬の治療効果の背後にある原因を考慮せずに、これまで有益だった液を繰り返し使うだけの方法である。神秘的で無限な力をもち、自然を変える超自然力の影響で自然の姿が変ったと感じたときに、魔術を使ったのだろう。数年前にライン教授は、魔術の実施はこうした自然の変化が「だれに(who)」、「どんな方法で(how)」、「どこに(where)」起こるかという三つの基本的な問題に対応していると発表した。この三つの問題に代わって、新しい重要な一つのwhat(身体とはなにか、疾病とはなにか、薬とはなに)が、技術思想の新時代を切り開くだろう。

 端的にいえば、賢明なる読者にとってこの問題すべてが重要である。原始人の経験療法に関して、第一にその方法(how)が問題である。ただし、理由(why)については考えない。彼らは最近の体験で有効性が立証された特定の薬を使った。第二に薬物療法の意義(魔術なのか、経験主義と魔術が共存するときの附属品にすぎないのか)は、魔術思考で考察するのが適切のようだ。

 

経 験 に も と づ く 薬 の 使 用

 私たちは各時代や各時期の原始人を対象とした学術調査により、彼らが薬で疾病を治療していたのを確認している。ニップールで出土したシュメールの粘土板アッシリアの楔形文字、エジプト中王朝の貯蔵所やパピルス(とくにスミス・パピルスエーベルス・パピルス)、古代インドのヴェーダ教典とそれにつづくススルタカラカチャラカ)、ベーラの集成であるアーユル・ヴェーダ医学書、古代の神農本草経と漢王朝の黄帝内経で明らかになっている古代中国の商・陳・秦・漢王朝の古い証拠、先史朝鮮のポンチョ伝説、イランの『アヴェスタ教典』、旧約聖書、原始アメリカインディアン(アルゴンキ族、カリブ族、パタゴニア人、チェロキー族)のすばらしい遺物がインカやマヤの記録として実を結んだ『チラム・バラム書』、とくにアズテック族の『サーグン書』と『バディアノ書』などすべて集成ではあるが、重要項目が経験にもとづく薬の使用を裏づけるものである。また例の課題にもどるが、原始人はどのようして動物薬と鉱物薬よりも,植物を原料とする薬を使うようになったのだろうか。

 偶然の一致があるかもしれないが、実際に全世界で同時に起こるとは考えられない。このため優れた歴史家や人類学者は、この問題に取り組まねばならなかった。なかでもスドホフ、ヘフター、ツシリッヒは自然現象を観察し、その経験を繰り返すことで事実になり、これが薬のはじまりであると考えた。一方、ダレンベルグ、ボーヒネット、ウンド、ドーソンは、偶然や多くの経験がきっかけとなって薬の使用がはじまったのではなく、魔法や呪術の活用を高めるために、魔術思考を適用したのが起源であると説いている。この考えから、たとえばドーソンは投与物質の多くは植物で、理論、知識、経験にもとづくのではなく、むしろ珍しさや外観、あるいは名前によって選択したと述べている。

 このようにして、経験法は投与物質の治療効果を立証した魔術法の後塵を拝することになった。その後、マーゼルらの折衷派により、経験説魔術説の双方に薬物療法の起源を認める説が詳細に論じられた。

 しかし、こうした解釈だけでは薬の普及が完全に説明できないし、すべての原始文明が同じ薬を使っていないことも明らかである。動物がなにも知らずに、本能的に薬草を治療に使ったという事実から、別な解釈も可能である。動物の場合と同ように人類も、疾病によって生理化学的変化が起こるので、本能的にそして「欲望論」にもとづき、適正な栄養を司どる物質かどうかはともかく、生体に必須な物質を探すといわれている。動物ではこうした刺激は無意識と本能の領域に属するが、人類では知識や意識の世界を通して経験により随意的な習慣となる。このようにして人類が本能的に薬を治療に使うことが、バスティア人風にいえば「自然思想」であり、原始人の空間的・時間的状況を理性的に普遍化した行動だと考えられた。理性的な行動だが考察が不十分であった。この経験主義は技術の部類に達していない。上記の見解を認めるなら第二の問い、すなわち魔術思考における薬物療法の意義と役割についても答えなければならない。

 

魔 術 と 薬

 生命を脅かす自然現象に遭遇したとき、原始人はそれを解明しようとした。疾病は稲妻、洪水、地震とともに、もう一つの自然現象であった。こうした現象に遭うと同じように本能的に、神聖で不思議な自然の営みに対する神話が生まれて広って行く。治療はそのなかで重要な役割を果していた。経験法でも薬の望しい治療作用は、間違いなく魔術の世界と関係し神秘性を内包している。アーテルの見解によれば、このようなことが前期旧石器時代の終わり頃(ムスティエ期)に起きていた。当初、細工や儀式は本能的で概ね十分だったが、頭を使い合理性を欠く内容に変えてしまった。このように薬はまじないや祈願とともに、魔術的な手術療法や話術療法だけで実施し薬が不用になるまで使われた。その後はまじないや祈願が優位な地位を占めた。そして薬は魔術思考で二つの役割を果した。一つは魔術法の一部として、また他方では自然の神秘的な変容に不可欠な役割を果していた。薬は魔術薬に採り入れられ、当然、その使用が増加し種類も多くなった。旧石器時代から、ある種の植物とともに神秘的な動物由来の薬や鉱物の抽出物も魔術の世界に登場した。

 

古 代 文 明 と 薬

 古代文明における薬は、原始的な治療法として二つの方向(本能的/経験的経験的/魔術的)があった。古代文明のもとでは薬の使用は大きく変化している。私の考えによれば治療法を理解するのもそうだが、重要なことは有用な薬の増加、薬の合理的使用、そして使用理由という3要素の変化である。しかし、こうした3要素の変化を検討する前に、疾病が異質な要素の体内侵入、精霊の喪失や脱出、悪霊の仕業で起こるという原始人の疾病観が消えずに、やがて疾病が神の刑罰として普通の疾病観に入っていくことは、大へんに重要なので付け加えておく。これは、第一に個人主義の繁栄と影響、第二は罪に対する考えや見方の主張や説明、第三として複雑な道徳的生活などの人類学的な影響(ライン教授がよく研究した領域)で、複雑な心理的効果が生じた。このようにして、とくにアステカ、マヤ、インカの古代文明では実際に先行しかつ継続する魔術的/経験的治療法のほかに、これら二つの治療法を土台とし、神学治療が加わった。現在の視点からすれば、前述した初期の原始社会とは逆の過程を歩んでいるようにみえる。古代世界では治療革命が逆行していた。この点に関して私はアッカークネヒトの考えに賛成である。いまでいえば宗教であるが、最初は魔術と合体し超自然的な薬の使用が優位に立っていたようだ。つぎの段階は脱神話化つまり経験的使用に至る。これで薬の増加が説明できるが,薬の知識が増えた結果、合理的な使用が必要になった。この時期では治療法の組み立てと適用法を合理化することが、二つの最終目標である。確かにこれは端的に表現したもので、当然、ほかにも考察すべきものがある。この説を前提とすれば、シゲリストエジプト医術に関する発表(常設の魔術的-宗教的治療学校と経験的-合理的治療学校の共存を主張)がよく理解できるだろう。治療の歴史のなかでは、どちらか一方がその時代に主流だったとしても、その内容が優れているとはいえない。

 

薬の増加

 古代のあらゆる文明で使われた薬は驚くべき数になる。キャンベル・トンプソンによれば、B.C.2000年のアッシリア-バビロニア文書には合計250種の薬用植物(実、草、穀物、香草、薬味、花、樹脂、ゴム類、樹皮)と、120種の鉱物薬(イオウ、ヒ素とその塩、アンチモン、鉄とその塩、金属の硫黄化合物、銅、水銀、アルミニウム、石灰)などが載っている。シュメール人の錬金術の伝統を忘れてはならない。さらに、家畜や野性動物の肉、内蔵、脂肪、血液を資源とした180種の動物薬も使われていた。糞便や動物の排泄物を揃えた薬局が汚物薬局であるが、ここにやがて問題となる汚物療法の起源が登場している。

 エジプト文書の植物薬、鉱物薬、動物薬も同じことがいえるだろう。グラポウとフォン・デニースは、とくにエーベルスとスミスの初期のパピルスに書かれた800種の薬名を調査し、そのうち植物・動物・鉱物界の482種の物質を正確に検証した。とくにヒマシ油コロシントウリセンナなど下剤が目立ち、ザクロのような駆虫剤、ヒヨスニガヨモギトショウカラシテルペンチンスキラなど植物薬が優位をしめている。タマネギ蜂蜜イチジクコムギセロリテレビンの木も収載されている。また、雄牛や去勢牛の肉胆汁亀の胆汁猫の子宮カバの脂肪とともに、カモシカ・ロバ・ワニ・ガチョウの肉、それからカラスの卵ガゼルの骨と角ウミガメの甲羅など動物薬も多数ある。酸化鉄、ナトリウムの炭酸塩イオウアンチモンなどの鉱物薬もあり、すべては皮膚疾患や眼科用に使われた。その他の多くの薬はまだ鑑定されていない。

 インドのヴェーダ時代、中国(神農本草経は3部門にわたり365種の薬を列挙し、中国の錬金術は4世紀に道教を介して修得したが、この重要性を見過ごしてはならない)、韓国、日本、イラン、古代ギリシャの薬局でも同じことがいえる。先コロンビア・アメリカでは、とくにアズテック族の治療法は検討するに値する。『サーグン書』と『バディアン書』には薬草と薬石を奉納する章がある。『サーグン書』は250種の植物を記載している。このうち185種がカラーで描かれている。一方、現地人のマルティン・デ・ラ・クルツ医師が写した『バディアン書』はさまざまな疾病の治療法を集め、薬用植物の図とその名称をナーワー語で記している。

 

薬の合理的使用

 原始的な植物薬はそのまま摂取、あるいは破砕・浸漬したり、煎じて効果が現われたようだ。とくに鉱物薬による治療が発展し、徐々に投与が複雑になった。シュメールの粘土板では、たとえばニップールの粘土板(クレーマーとレヴィが解読、年代はB.C.3000年)に分量についての指示はないが、薬の調合法が記載されている。繰り返す場合や記憶するときに役立つ。また、2,000年前の経験を記すエジプト・パピルスはこの点について注目する必要がある。処方や処方薬は3部からなる。第1部では薬を処方し、第2部はおそらく古代エジプトには薬剤師がいないので医師に指示を与え、第三部で患者への処方薬の投与法を解説している。処方薬として活性成分、矯正薬、賦形薬(油、水、脂肪、ビール)を記載している。もっとも、すべての薬についてエジプト学者たちの見解が一致しているわけではない。有名な『ベレンデス書』はこれらを詳細に写したものである。エジプト医術の治療法は、煎剤、丸剤、散剤、浣腸剤、坐剤、滴剤、ポマード、軟膏剤など多数の薬を常用していた。これはアッシリア-バビロニア医術にない薬の乱用であった。マヤの『イクシル書』は植物を煮てシロップを製剤する技術を載せているが、中国の古代王朝の医術も同じ特徴を示す。

 

治療効果を合理的に理解する努力

 古代の治療法が魔術性-神秘性を失って、経験的-合理的要素が徐々に強くなれば、各階層の治療者たちが技術以前の治療観で、合理的に治療法を解釈しょうとするのは当然だろう。難しい問題である。治療法を魔術的-神秘的知識で、霊力の解放、固体変化論や接触感染論の一部(フレーザー)、共感、協力/拮抗の相互作用、移入、お守り・呪物・護符として理解するのは簡単である。しかし、経験的-合理的思考の場合はどうだろうか。天地創造説や人類発生説は文明によって異なるが、多様で共通した解釈が行われる。インドのサーンキヤ体系アーユル・ヴェーダでは、マハーブータ(大いなるもの)と3種のドーシャ(命の呼吸の風、胆汁の火、粘液や脳下垂体分泌の水)が、体内の七種の基本要素と一緒になって重要な役割を果す。この教理では疾病で失った宇宙(ドーシャ)の秩序を再び構築するのが治療行為であると捉らえる。一方、エジプト医術では、回路(メツ)を通る体液の流れを適正に回復させることが治療であると考えていた。体液の停滞による有害作用で、身体の本質は化膿して腐敗する(ウェヘズ)と捉えていた。 中国医術は第三番目の新しい考え方を示した。道教の不老不死の事実にもとづき、宇宙を陰と陽の二つの相反する原理で表わす。のちに宇宙を構成する元素、すなわち水、土、火、木、金(五行)が登場した。この五行が人を構成する基本要素となった。したがって、治療法は平衡を失った大いなる宇宙原理と五行をもとにもどすことにあった。

 どれも重要な問題である。このことは私たちが治療と薬物療法について「技術的」に考察する場にいるという意味だろうか。ライン教授「医療の真実性と合理的、科学的、技術的なものと判断するには、二つの条件が必要である。宇宙本体の基本原理における運動と変化を種々の機序で説明ができ、医師の使命が体系化されて合意が形成されていることが条件である。しかし、これを満たしてない」、また上記の治療論は原初からなんら進歩してないし、一部についての合理的な解釈は初歩的な概説に過ぎない」と述べている。古代の思考とギリシャ語のtekhne(技術)について、X.ズビリが自著の『自然・歴史・神』で難解な考察を行っているが、「ソクラテスとギリシャの賢人」の項が参考になる。

 

薬 と 毒 薬 の 関 係

 まだ触れていないが、ほかにも医学史の専門家たちに有名な説がある。数年前にアーテルが発表した薬と毒薬の関係についての報告である。薬と同ように毒薬や毒物の概念も経験を通して発展した。人類は直感的に有毒な植物をさけ、また毒をもつ動物から逃げることを知った。身体に侵入して障害をもたらす毒薬と疾病の不思議な関係が、薬と同ように急速に魔術の世界に入り込み、薬と毒薬は有益な呪術として、あるいは有害な毒液として、コインの表裏のように原始人の心に刻まれた。またそれ以後も薬草の処方はあったが、有益なときもあり有害な場合もあった。このように個々のケースによって、良好な結果や障害が発現するが、概ね無効な物質や不活性な物質に対する考えが形成されてきた。このようにしてすべての古代文明や言語に薬や毒薬に関し共通の魔術観か誕生した。一方で、薬の作用を強壮、有効、有毒に分類した中国の神農本草経のように、文明によっては魔術よりも合理的な考えが発達した。もう一つの例としてインド平原をとりあげよう。ゲラは「インド医術」にはその疾病観にもとづいて、薬だけでなく超自然力に連なる方法も含まれるとしている。医術は魔力に対してよき医療や悪しき医療となるばかりでなく、薬草を指すようにもなった。同じようにベルトランが1746年に発見したマヤ文明でも、「毒薬と毒液はメイ,ヤーフ,キャビルと称し」、薬はどれもテノアクという一般的な名で、事実、毒薬はオアクと呼んでいた。オアクはテリアカや薬と混同されていた。

 毒薬pharmakon(薬)とios(毒薬)、medicamenmedicamentum(薬)とvenenumvirus(毒薬)のように、それぞれの特徴により有益な薬と有害な薬に区別するのに使われたにすぎないが、ギリシャとローマで学術語を分類するときの基礎となった。当時、薬と毒薬の概念は表裏一体の関係で、魔術界のように魔力による活性化や効果がこうした概念の起源であった。薬の歴史と、毒薬が魔術や経験的手法に拮抗剤として参入する経過について、これ以上は技術以前の医術に踏み込めない。前述した文明にも十分にあてはまるが、メソポタミアと古代エジプトに関してテンキンが、「私たちは遺跡の影響によって擬古主義にならずに、ナイル河やユーフラテス河を渡らなった」と述べているのを知っている。ギリシャ文明だけが薬と毒薬の概念を科学的に理解していた。このテーマについて次章で論ずる予定である。

 


資料の説明

 

 

図1.

鳥の狩猟。テーベのエジプト人の墓より、1450年頃。
鳥も獣とともに食物や薬として使った。

 

図2.

アメリカ合衆国西海岸の北米インディアンが使ったシャーマンのお面。
19世紀後半(スミソニアン協会、ワシントン)。
図3.

シャーマンないし治療僧の神秘的な姿。
彫刻・絵画下にブルーイユがその姿をはっきりと模写(レ・トロワフレール洞窟、フランス)。

図4.

病床の近くにいる古代の北米インディアンの呪医(美術館、フィラデルフィア)。

図5.

疾病との闘いで動物の力をえるために、水牛をまねるリオ・グランデの魔術師ないし呪医。
図6.

バミレク教の装束(王立宝物館、カメルーン)。
図7.

宗教の象徴、コタ文化。
ゴーギャン(アフリカ美術館、ワシントン、D.C.)。
図8.

シュメールの治療者が使った経験主義の処方。
最古の医術書、B.C.2000年頃(大学博物館、フィラデルフィア)。
図9.

バビロニア王ハンムラビの法典を刻んだ閃緑岩の石碑。
図10.

バスの浮き彫り。アッシリア王アッシュルバニパルの狩猟場面。
B.C.668-630年。
ニネベ(大英博物館、ロンドン)。 
図11.

雄牛は力の象徴。
バビロニアの象徴学では不可欠な像。
ウル王立共同墓地(大学博物館、フィラデルフィア)。
図12.

医師ウルガレディナの円筒印章からえた文書。
「エディンムギ神よ、ギル神の大臣よ、産婦を救い給え。医師ウルガレディナはあなたの僕です!」と祈っている。
図13.

健康の神ニンギッシュジダに奉納した儀式用の処方。     悪魔がからんだ象徴。
ラガシュで発見。
(B.C.2000年頃.ルーブル美術館、パリ)。
図14.

メソポタミア文明は複雑な鬼神学を発展させ、疾病と悪霊を説明した。
この像は恐ろしい悪魔パズズである。
B.C.1000−500年、(ルーブル美術館、パリ)。
図15.

アッシリア-バビロニア医術では、診断術予後術の一つに肝臓検査があった。
犠牲動物の肝臓検査後に行う儀式を碑銘に刻んだリスの肝臓。
(B.C.14-17世紀)。     

図16.

アッシリアの青銅製のお守りに彫った呪文。
疾病や病人が中央にいる。聖職者は偉大な水神イアの象徴を魚として表現。
魔よけと思われる瓶から女神ラバルツが出現(ルーブル美術館、パリ)。

エーベルス・パピルスとエドウィン・ スミス・パピルスの断章。
疾病用の魔術薬および経験薬(薬物療法薬と外科用治療薬)を収載、ともにB.C.1500年頃発刊(カール・マルクス大学図書館、ライプチヒ)、(ニューヨーク歴史学会、ニューヨーク)。
図17 図18
図19. ダイレル-メディナ共同墓地にあるセヌテムの墓。
テーベ、エジプト。
埋葬地区の地下納骨所に描かれた宗教画。


図20.

死者の書より引用したパピルスの図(B.C.1250年頃)。 ジャッカルの頭をもつアヌビスが、最後の審判で書記官アニの心臓を秤で計量。秤にある羽根は真実の象徴。怪物アミトが心臓を食べようと待っている(大英博物館、ロンドン)。

図21.

ワニの上に立つ子供のホルス。
桃色の石版に魔術の浮き彫り。
プトレマイオス時代。
ヘビの咬傷とサソリの刺傷をさけるために使った(ニコラス・ラントーのコレクション、パリ)。
図22.

バディアン書。
バチカン使徒図書館に現存。
アズテック族が使用した薬草を写した。
図23.

トラゾルテオトルトチまたはテテフィナンと呼ぶ。
呪医の女神。
古代符号。
図24.

クェトザルコアトル、多産と生命の神。
古代符号。
図25.

トザポトラテナン、医神。
古代符号。
図26.

擬人化した土器製容器。
ミクステカ文化が薬の保管に使ったもの(国立人類学博物館、メキシコ)。
図27.

テズカリポカ。
催眠力をもつ魔神。
アステカ文化。
図28.

メクテカチフバルトル。
死神。
メキシコ文化、メキシコシティー。
青銅製(国立人類学博物館、メキシコ)。
図29.

ヒンズー教のアーユル・ヴェーダの一部。
医術(魔術)に関する写本(大学図書館、チュービンゲン)。
図30.

薬屋の行商。
ヒンズー教の水彩画、B.C.18世紀(国立図書館、パリ)。
図31-32-33.
黄帝、扁鵲、神農。
古代の中国医術における伝説上の人物。


図34.

ニンジン。18世紀のドイツの彫版画(装飾美術図書館、パリ)。
図35 図36 図37
本草品彙精要の図、1505年。
(国立ビットリオ・エマヌエルU世中央図書館、ローマ)。


図38.

本草品彙精要、1505年。(国立プロイセン文化財図書館の写本、ベルリン)。
図39.

天然痘の魔術療法。ヨシフジの彫版画。(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校生物医学図館、ロスアンゼルス)。
図40.

疾病を誘発する邪鬼に襲われた天然痘患者と食事療法(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校生物医学図書館、ロスアンゼルス)。