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第 VI 章

 

啓 蒙 主 義 と ロ マ ン 主 義 時 代 の 薬


ホセ・ルイス・ペセト

 

ガ レ ノ ス の 遺 産

 医科学は18世紀から19世紀の時代に誕生した。この分岐点はガレノスの影響という重荷から解放するためには、さけて通れない時代である。新しい知識が医学界に入り込んできたが、医学校ではまだ古典的な教育がつづいていた。患者に対面する近代の医師は、本質的にはガレノス主義の疾病観や薬で支えられていた。重い遺産のなかで薬局方は非常に複雑になったが、優れた内容になっていた。薬理学の知識により、とくにスペイン人やポルトガル人がアメリカから重要な植物を輸入し、新しい薬が登場した。このほかにも化学者が苦心の末に生みだした無機薬品が加わり、医療活動は大へん複雑になってきた。

 18世紀はガレノスの積極的な複合剤を受けついだが、この薬は配合過剰で問題となっていた。医師は自分の薬や信用しているものを疑いはじめた。17世紀にモリエールが医療専門職を厳しく批判したが、18世紀にはスペインの医師トーレス・ビラロエルが、医学と実施医家を対象に攻撃を復活させた。この医師はサラマンカ大学でまったく伝統的方法で研修を受けたが、アリストファネスから近代まで中断することなく生き残った、医療風刺の方針を受けつがざるをえなかった。この事実は当時の医学が不十分であり、医療界に与えた影響の強さを示している。まことに優れた概論となっている。

 啓蒙運動合理主義は、薬理学と衝突しながらも影響を与えた。努力を重ねて薬の探査と投薬の知識に一貫性をもたせるよう働きかけた。これまでの薬理学の歴史を厳しく否定するばかりでなく、速やかに新しい方針を確立するよう求めた。

 将来、新しい薬理学が発展するだろうが、まだ当初の方針は医学を大きく改革するほど進歩していなかった。当時、医師は生きた人と鉱物は異なるものだと主張し、自然科学の医学への導入を阻止するこれまでの生命観に固執していた。偉大なフランスの化学者フーコーは世紀末に、有機化学の知識が不十分であまり進歩していないと嘆いている。この学問を専攻する学者はほとんどいない。技術と知識は素朴なものであった。

 生理的な処理過程は多様で複雑な方法で反応すると考えられていた。この方法は当時の科学にとって、難解で神秘的な謎であり、化学者が体内での薬理作用を研究するのを妨げただけでなく、化学者を医学から締めだしていた。臓器に関する知識が不十分で、当初は薬の作用メカニズムが解明できなかった。当時は薬を精製しかつ実験し、真の活性成分を探しだすことができなかった。薬と生体の両方について知識がないため、ジギタリスの最初の失敗例が示すように、矛盾した問題点を解明できなかった。ウィザリングはジギタリスの作用が心臓や肺臓に影響するかどうか確認できなかった。彼は水腫に対する作用を分類した。たとえば、その作用は「脳水腫」と「卵巣嚢腫」には効かず、同時代の人に警告したにもかかわらず、作用様式に関する正しい知識はまったく不十分であった。この驚異的な新薬は有害作用の発現が原因で、最初の数年間は疑いと軽べつの目で見られた。

 植物学はルネッサンス期から啓蒙期の時代にかけてめざましく発展した。植物学からえた農学や医学上の大発見のみならず、海外旅行、ヨーロッパにおける植物園の出現と講座に大学教授職が創設され、植物学はすばらしく進歩した。ともかく、多数の新しい植物薬が発見され、スウェーデンのリンネが完成した植物の鑑定と分類体系によって、医学は薬の探索と植物学を信頼するようになった。

 前述したように、ジギタリスを治療に導入する物語は非常に重要である。ジギタリスの薬としての適用は、ルネッサンス時代に発見され、さまざまな植物論文に紹介されているが、イギリス人のウィリアム・ウィザリングが発見したものである。ウィザリングは当時の聡明な植物学者である。ジギタリスが水腫によく使われるのを知っていた。理由はすでに考察したように、この植物薬に関する彼の研究はすすまなかった。それでも1785年に著書『キツネノテブクロについて』をバーミンガムで出版した。有名な薬ジギタリスの知識と適用に関して、科学的な貢献を果した第1号である。ほかにも多数の植物薬が発見された。たとえば、多少幸運であるが、ベラドンナ麦角が治療に使われはじめた。二つとも古代から有毒物質であることがわかっていた。前者は散瞳作用があったので化粧品としてのみ使われ、後者は薬や魔法の毒薬として、ニセ医者が取り扱った。

 古代から知られている古い伝統薬につぎいで、舶来の貴重な薬が到来した。こうした進歩に対して、スペインの功績は相当なものであった。マドリッド植物園が手掛けた膨大な研究課題や目録作成、そして航海の編制に感謝する。多くのスペイン人が植物薬を基本とする薬の開発に貢献した。ルイスとパヴォンの調査旅行に触れておこう。ルイスラタニーの初輸入に寄与した。ホセ・セレスチノ・ムチスの著書とアメリカ旅行も、大へんありがたいものであった。ムチスはアンゴスツラに関する知識と薬の武器庫に貢献した。植物薬の発見でスペイン人が果した役割は見逃せない。たとえば、リンネはムチスが送ったキニーネの標本に感謝し、これによってリンネの研究がさらにすすんだ。同じキニーネに関するヒッポリトー・ルイスの研究、ドクニンジンに対するゴメス・オルテガの研究もそうである。ほかの国や地域も検討するに値する。ダールベルグがはじめて、スリナムからカッシアを西洋医学にもち込んでいるのがその例である。

 啓蒙運動の合理主義と分類に対する熱意も医薬品集に読みとれる。当時、医薬品集は薬局方の名称で、複雑な既知の薬の情報とその管理を期待して編纂された。1618年にできたロンドン版薬局方につづいて、多数の国々も有名な薬局方を発行した。1721年になってはじめて、医学的に信頼できる内容の薬局方が完成した。1739年にマドリッド薬局方初版が、1794年にスペインで薬局方初版が、1778年に北アメリカ版の薬局方ができた。種々の医薬品分類法があったが、多くは科学的な基準にもとづいている。しかし、なかには独断的な方法で編纂したものもあった。化学的な配列も可能だったが、植物薬に対し重要な位置を与えた植物の体系化(植物学的)と、公平な自然観察者である植物学者が植物薬の分類を完成したことが最大の成功である。例をあげれば、こうした性質は当時教科書として使われ、リンネが完成した基準を採用したルドヴィコ・テッサーリの『薬物要綱』 に表われている。ほかの基準も薬の研究や分類に使われている。生気論者のウイリアム・コレンの概念は、大へん関心を集め広く普及した。コレンは薬の作用点や場所を考慮しながら組織の細胞成分を研究し、その結果によって薬を分類した。彼は固体が液体に作用するかどうか判断し、また静的成分や動的成分に対する作用を分類した。

 

ヒ ポ ク ラ テ ス と ガ レ ノ ス

 薬の作用の謎に迫ろうとする考えと違って、ヒポクラテス主義の名にかけて、薬の治療上の可能性を厳しく問う医学思想が大勢を占めていた。医師の第一の職務に患者を傷つけてはならないという項目があるが、この自然観とヒポクラテス主義にもとづいて、多くの専門家が複雑で確証がないガレノス薬に反対した。啓蒙医家は自分を自然の奉仕者と考えていたので、治療上の特性が明確に立証されるまで、危険な薬による冒険や薬の選択を行わなかった。啓蒙主義の医師は近代科学の経験主義や功利性と連携しながら、無効で有害な薬には反対だと繰り返し表明した。

 19世紀の医師はこの傾向が拡大し恐ろしい治療ニヒリズム(効かないときは、まったく治療を行わない)を生んだが、慎重に使用すれば過去から引きついだ治療体系は適正だと評価した。一部の薬は簡素化された。したがって、特定の疾病に対する特定処方は、単一剤の使用で代替される傾向にあった。ガレノス風に薬の質と関連させて、不適当な薬の作用を補充する処方がまだ繁用されていた。

 オーストリアのマリア・テレジアの医師で、当時は最高の臨床医だったヴァン・スウィーテン水銀液を調製している。本剤について述べなくてはならない。とくに、梅毒に繁用した水銀療法には危険がつきまとっていた。水銀塩、なかでも二塩化物をアルコールに溶解して造る「スウィーテン液」は、相当に有名で普及した。投薬はこうした方法や多少複雑な処方で行われた。この処方で有効性が高まり、毒性が減らせると考えていた。しかし、活性成分を精製して使用を簡素化することが一般的な傾向であった。

 このようにしてベラドンナヘムロック水銀などが単独で繁用された。

キニーネの場合は非常にはっきりしている。スペインのマスデバルのキニーネのように、当初はかなり複雑な処方で使われていた。啓蒙運動の終盤には単独で一番よく使われたが、服薬を促すために少数の薬と混合された。

 これが19世紀になって薬から活性成分を分離して、人工的に薬を製造する化学合成法が生れた道すじである。しかし、この自然主義は注目すべき結果をもたらした。すべての悪や疾病の治療者とされる自然への回帰は、新しい治療原理(神に準ずる自然の力)の発見を促進した。もっとも明解な例は、古典的な伝統のなかで延命剤、すなわち万能治療剤とされたを治療に使うことである。医師は西洋科学のあらゆる領域で、自然主義の理想、単一性、無害性、有効性を有する「この薬」に情熱を傾けた。水源や水の特性の研究に没頭する医師も多かった。彼らは重要な治癒力を有する泉の目録を作成し、その水の御利益はどの薬よりも優れていると考えた。スペインの医師ヴィンセント・ペレスは、この新薬を一番熱心に提唱した人で、ガレノス主義への不信と自然の可能性に対する新たな信仰を提示し、激しい「水の論争」を「血液の論争」とともに開始した。今日では薬のすべてを水で代替するのは合理的でないが、ヴィンセント・ペレスの著書を精読するよう推奨したい。進歩的な功利主義経験哲学を基本とする近代的感覚をもった作家といえよう。彼の仕事は大へん成功した。当然だろう。ペドロ・ベドーヤ・イ・パレデスも、半島の水に関する重要な目録のなかで基本となっている。水の有効利用はロマン主義時代にもつづき、新たにこれまでの発見を支持する科学・技術上の特性が加わった。

 水治療法温泉療法はここ数年の間にはじまった。水に関する優れた物理・化学的知識と、体内における水の生理学的研究が長い軌道を描きはじめる。その後はこうした専門分野が担当した。同時に、酸素電気の治療への応用など、これまでにない自然の「力」が発見されて、当時の医師たちが新しい治療法が採用できるようになった。

 

似 た も の が 似 た も の を 治 す

 ヒポクラテス全集の時代から、疾病の質と同一または反対の質をもつ薬を投与すれば、疾病が治療できるとさられている。しかし、ガレノス主義は反対または逆の質をもった薬の使用を強調している。18世紀と19世紀に多数の医師はその遺産はよって医療を実施した。スコットランド人のジョン・ブラウン(啓蒙時代の改革から離れた人)は、医師として同じような伝統的信念をもって意欲的に活動し、薬理学の可能性を最大限に利用した。伝統医学への過剰反応はその後ブルセ説で強化されるが、これを過大評価して多数の医家が伝統的指針をすてて投薬の数を減らし、逆の質を適用する治療術は無視すべきだと主張した。

 マイセンのサミュエル・ハーネマンが創始した医学思想は今日までつづいているが、彼の著書『方法論序説』は1810年に医学論が確立したのちに出版された。伝統的な考え方から抜けだした好例で、ハーネマンの第1原理は疾病に似た質の薬を投与して治療することであった。キニーネの投与とその作用で発熱を治療する経験を経て、これを理論の基本とした。自分の身体を実験台にして、キニーネが発熱症状に似た症状を誘発するのを発見し、キニーネで治療できる理由はこれだと考えた。治療中の症状に似た質を考慮することが結論であった。第2原理は疾病の治療は最小量の薬で十分かつ適切であるとの考えである。これは薬理学の伝統から完全に乖離した見解であった。後者の影響でハーネマンの医学思想は、西洋医学における積極的な複方剤の誤りを修正する方法をはっきりと示した。

 ハーネマンは新しい治療学の研究にも道を開いた。単一剤を使用することと、治療を実施するには完全な知識が必要だと唱え、彼と門弟たちは自分の身体の対する薬の効果を分析する自己投薬の「試験」を開始した。この医学論と活動に反対し批判する人たちもいた。ハーネマンの説はホメオパチー同種療法)として知られ、伝統的なアロパチー異種療法)に対立するものであった。当時の典型で注目すべき改革の代表的な例である。

 治療分野でもう一つ重要な新発見は、エドワード・ジェンナー種痘である。彼はジョン・ハンターの門弟で、この師に観察と経験への関心を教授された。ジェンナーは家政婦が牛痘に罹患した搾乳者はその後、人の天然痘に罹らないというグロースターシャーの牛乳物語を耳にした。すぐに牛痘を人為的に人に接種できるかどうか、その可能性を検討した。結果は発症した症状は軽く有効な方法で、その時代の天罰であった天然痘の予防に重要な手段となった。

 天然痘の予防は公平にみて、ジェンナーの辛抱強い業績とすべきであるが、予防は古代から知られていた。しかし、ジェンナーの発見以前は、罹患者の疾病を人に接種する方法であった。接種された人は非常に危険であった。この方法は相当に古いことがわかっている。伝統的なヒンズー教の医書、とくにアタルヴァ・ヴェーダにその接種法が述べられている。古代中国では天然痘の予防に、この方法を採用していたと思われる。本法は17世紀のコンスタンチノープルでも知られていた。イギリス大使の妻ワートリー・モンタギュー夫人がこの秘密をイギリスにもち込んだ。大使令夫人は罪人で接種に成功したのち、我が子で実施しウェールズ皇太子妃の子にも接種している。ギリシャ法は十字架をきって額、下顎、顎の4箇所に痘苗を穿刺するやり方であった。この技術は文明世界のいたる所で、医師や知識人の間で重大な論争に発展した。本法が相当に普及した国もあった。イギリス王室の例であるが、ほかの名門君主たちも追従した。多数の軍隊で新しい種痘法が規則として制定された。

 しかし、この発見は危険なものでやがて影が薄くなってしまった。ジェンナーはこれを眺めて師のハンターに相談した。ジェンナーは「これ以上考えるな、実験だ、辛抱して確実性を高めたら」と激励され、長い年月をかけて本法の有効性を立証しょうと決意した。28年間にわたって観察したのち、1796年にはじめて人に牛痘を接種する決断を下した。ジェームス・フィップ少年は、その年の5月14日に第1回の接種を受けた。接種部位では牛痘が感染して、単純な膿疱が発現した。この少年に人の天然痘を接種しても発症しなかった。数ヶ月以内に、その観察結果を王立協会の会報に掲載するために送った。受理されなかった。結局、1798年にロンドンで『天然痘ワクチンの原因と結果に関する調査、イギリス西部とくにグロースターシャーで発見した牛痘について』と題して、ジェンナーが自主出版した。新しい方法が生んだ論争は相当なもので、反対派と支持する側が激しく衝突した。やがて世界中の医師が全員一致で認めた。この改革は社会的に大へんな成功を収めた。西洋のすべての政府がその業績を認めた。イギリス政府が最初で、1802年に銀貨1万ポンドを国家賞として発見者に提供することを決めた。1807年には2万ポンドの追加を認めた。
半世紀後の1857年にジェンナーの栄誉を讃えて、トラガルファー広場に記念碑を建立すると布告された。

 1815年にフランス学士院は、とくに天然痘ワクチンのような医学の本質に関する重要なテーマに詩歌賞を定めた。11編のフランス語の詩が予防医学のすばらしい成功を証明している。

 スペインは中央アメリカ、南アメリカ、そしてはるか離れたアジア大陸まで、この発見を普及させる栄誉を担った。1803年にスペインのアルカンテ地方出身の医師ジャイム・バルミスは、遠征隊を率いてスペインの海岸から出発した。遠征隊は天然痘ワクチンの保持を引き受けた。天然痘に罹ってない数名の医師、労働者、子供で編成された。遠征隊はカナリア諸島とプエルト・リコを経由してカラカスに到着。そこで二隊に別れた。そのうちバルミス医師が率いる一隊は、新スペインとなった総督支配地に赴いた。副指揮官フランシスコ・サルバニの隊は、南部の総督支配地で接種を行った。その後、バルミスは自分の子と一緒にフィリピンに到着し、アジアに新しい方法を伝えた。天然痘との戦いがはじまった。200年以上にわたって大量に人を殺戮した天然痘は、今日では少なくとも根絶している。ジェンナー法の普及に感謝する。

 

化 学 へ の 回 帰

 化学は18世紀末から19世紀初頭の時代に、近代科学の一専門分野としての地位をえた。ラヴォアジェの著書とベーゼリウスの業績の間に、科学の世界は化学部門で重要な革命を経験した。一連の不変な元素が、全生物の基本成分であることが確立された。この元素は立証可能な科学法則にしたがって反応し、結合することが証明された。化学の事実と法則が有機物と無機物に関しても真実であることがわかり、同じようにこの科学が、医学とくに治療学や薬理学の面で基本的で不可欠な支援者となるのが当然であった。1828年に尿素の合成が成功して、近代有機化学と薬理学の無限な発展を妨げていた最後の障壁がとりのぞかれた。

 ロマン主義時代に生物の化学組成に関する知識が急速に発展した。もちろん、こうした進歩は医師が人に使う薬の作用を研究する場合に、絶対に欠かせないものであった。ビシャーが組織論をまとめたとき、アルカリや酸といったある種の物質に対する化学反応を考慮すべきだとしたのは当然であった。一方で、数十年前に誕生した薬の単一化運動を完成するために、化学薬品や薬局で使う薬の分析がつづけられた。このようにして薬、とくに不活性で有害な物質を高率に含有する植物薬から活性成分を単離すること、すなわち啓蒙運動の理想が達成された。

 1803年にはデロスンがアヘンからある成分を分離した。これは最初「デロスン塩」と呼ばれたが、のちにナルコチンとなった。2年後にゼルチューナーがモルフィウムと名づけた成分を分離した。今日ではモルヒネと同定されている。こうした薬は基本的な性質によって「アルカロイド」と命名された。

 最初に単離した成分につづいて、シンコニン(ゴメス)、ベラトリン(メッスナー)、カフェイン(ルンゲ)、ソラニン(デスフォッセ、ブランデアス)、ニコチン(ポッセー、ライマン)、ナルチンとエメチン(ペレチエ、ロビケ)、アトロピン(メイン、ガイガー、ヘッセ)など多数の成分が登場した。ポースキー、ホモール、ケヴェンによるジギタリン発見で、ルードヴィッヒとスタニウスがこの薬の多様な作用を解明することができた。これはウィザリングが解決できなかった問題の解答である。

 他方で、有機化学は薬の数を増やしつづけた。クルトアが発見したヨウ素は梅毒の治療剤として登場し、臭素炭酸水素カリウムも医療で有用性が立証された。医学と化学は新しい科学上の関係を気づき、相互に研究や知識の分野を広げることができた。

 新しい学際的な活動を行った最良の人物は、ギーセン大学教授のユストゥス・フォン・リービッヒで、1826年に卓越した化学実験室を創設した。1832年の『リービッヒ年報』で当時、最高に発展した近代有機化学について、本物の講義をはじめた。有機化学で最高の権威者は、1842年に不朽の名著『有機化学の生理学および病理学への応用』を出版した。化学者としての優れた業績を人間の生理学と病理学の知識に活用した。実験法の土台は生物学が基本であった。生物に関する彼の化学的分析は、タンパク質の重要な役割を主張し、その命名法を生んだ。

 その他の方面では、上述した著者たちの業績を発展させながら、多数のアルカロイドの研究に没頭した。尿素を合成したフリードリッヒ・ウェーラーと協力しながら、有機化学における基を定義した。彼は1832年に具体的な化学基の存在と同時に多数の有機結合の活性を証明する、有名なベンズアルデヒドに関する著書を発行した。こうした有機化学と無機化学の合成における重要な業績は、生理学の分野で最高の形で具体化した。「代謝」や「物質変化」の概念が近代薬力学の土台を気づいた。窒素炭素サイクルに関するリービッヒの学説は、新しく、まったく現代的で薬理作用研究の出発点である。さまざまな動物実験法がこうした研究を経て開発された。

 フランスの生理学と毒物学は、この分野で重要な責務を果している。この発展によってその時代の医学に、非常に重要な二つの専門学科、つまり薬理学毒物学が創設されている。同時に身体での化学薬品の作用に関する知識が、完全なものになる可能性がある。フランス大学の偉大な生理学者フランソワ・マジャンディーは、生理学の実験技術の草分けである。「事実の回収者」と自称したマジャンディーは実験医学の先駆者で、生理学者が彼の業績を参考にできるような経験的データを研究し、真実を求め粘り強く観察した人であった。マジャンディーは生体における薬の作用について研究を開始した。自分でストリキニーネモルヒネエメチンなどさまざまな薬の作用を調査した。

 同時代にスペインのマテオ・ホセ・ベナヴェンチュラ・オルファは、研究の基礎としてマジャンディーのすすんだ方法を採用した。バレアレス諸島のメノルカ島マオン生まれのベナヴェンチュラ・オルファはヴァレンシアとバルセロナで勉強し、そこで啓蒙主義者の優秀な化学者フランソワ・カルボネル・イ・ブラヴォの門弟となった。スペインのロマン主義時代、あらゆる政治問題に悩まされたので、全体主義の政府から何度も招待を受けたが、ほとんど母国スペインに帰らず、業績の主要部分をパリで創りあげた。ベナヴェンチュラ・オルファは近代法医学の創始者である。パリ医学校の教授で最終的に学部長になっている。彼はマジャンディーの生理学の研究法を採用した。1813年に毒物学の大論文『毒物学紀要』を発行して、この専門科学を制度化した。ある意味では同じ方向を目指したマジャンディーの偉大な門弟がいた。クロード・ベルナールで、現代生理学を創りあげた優秀な生理学者である。重要な毒物のクラーレの使用と毒性に感謝したい。クラーレのシナプス性運動板に対する選択作用によって、師の生体解剖のように眼窩を通して出血せずに、きわめて正確に選択的解剖を実施することができた。一連の改革が近代薬理学の誕生を促進させた。

 こうした刷新はドイツで一番活発にすすめられた。フランスの技術革新の影響のもとで、思索的な「自然哲学」と違ったドイツロマン主義時代の数名の科学者、たとえばヨハン・ミュラーや前述のユストゥス・フォン・リービッヒらの活躍により、研究法や教授法だけでなく産業を強化した新興国ドイツの活力と相まって、やがてドイツの薬理学は西洋科学界の最高峰になった。このようにして1850年にルドルフ・ブッヒハイムは、最初の実験薬理研究所を開設した。この研究所の創設者と門弟はさまざまな薬、とくにカリウム塩下剤肝油ベラドンナエルゴトキシンに関する長い実験作業にとりかかった。

1856年に長い実験の努力が薬理学の論文としてまとまった。ほぼ、同じ頃、カール・グスタフ・ミットシュリッヒはベルリン研究所を開設した。この立派な論文の作者は大量に再版されて読者を広げた。ウィルヒョの弟子カール・ビンツは少し遅れて、ボンに実験薬理学研究所を開設している。キニーネヒ素エーテル酸ハロゲン化合物麻酔剤など重要な薬を研究した。ブッヒハイムの門弟オスワルド・シュミーデバーグが、このような草分けの実験家たちの仕事を引きついだ。彼の主要な業績は近代薬理学の土台を整えたことである。この点は本章より後の時代の課題である。次章で言及するが、シュミーデバーグの業績と科学の巨像ポール・エールリッヒのおかげで、実験治療学と薬理学は現在、二人が喜ぶような円熟期を迎えている。


資料の説明

図154.

18世紀の薬局
(薬学・生物学部コレクション、パリ・リュクサンブール宮)。
図155.

ペナランダ・デル・ドゥエロにある古い薬局の実験室、1697年創建(ブルゴス、スペイン)。
図156.

貧困者用のテリアカを入れた大きな薬壷。
テリアカは古代から不明な成分を多数含有し、さまざまな目的で使用した薬、1751年に製作(薬学部コレクション、パリ)。
図157.

ウイリアム・ウィザリングがジギタリスの治療を書いた著作の表紙。
図158.

カール・フォン・リンネ
(リンネウス 、1707-1778年)はスウェデンの医師で植物学者。
植物と動物の分類法が成功し、同じ方法を疾病の分 類に応用(ニューヨーク医学アカデミ−)。
図159-1.

18世紀のスペインの植物学者ホセ・セレスチノ・ムチス 。
この肖像画はマドリッド植物園が保存。
ムチスの植物相の2,849番で右のスライドn0、グラナダの王立新統治国植物調査隊.トメ44(イベロアメリカ協力院、マドリッド)。
図159-2.

キナ。
図160.

19世紀初期の錠剤製造用の鋳型。
図161.

錠剤用の容器。
図162.

ツゲ製の壷。
婦人がノミをさけるためにスカートのなかに入れた。
ロココ時代(ドイツ医学史博物館、インゴルシュタット)。
図163.

ジギタリス。
18世紀で一番有名な薬用植物。
図164.

ベラドンナ。
薬局で繁用した薬草。
その名は婦人の瞳孔を散大する作用に由来。
図165.

ジョン・ブラウン(1735-1788年)。
レモン作の銅版画。
図166.

銀製のランスデン式静電気発生装置(メドトロニックの生体電気博物館、ミネアポリス)。
図167.

ホメオパチー(同種療法)。
18世紀にサミュエル・ハーネマンがヒポクラテスの格言「似たものが似たものを治療する」から創案した治療法。
図168.

19世紀前半のホメオパチー薬
(薬史学会コレクション、パリ)。
図169.

ライアンコート城での種痘。
コンスタント・デスボルデス作の絵画、19世紀初期。
医師はアリバート。
再び有名なマルセリン・デスボルデスの顔が登場。1800年頃。
図170.

天然痘ワクチンを発見したエドワード・ジェンナー    (1749-1823年)。
図171.

帝政風の薬保管棚(1810年頃)。
図172.

カウフビューレンの市営薬局の薬保管棚。
ウルムの判事ヨハン・フーリードリッヒ・ハートレブから、カウフビューレンの薬剤師ヨハン・アダム・シュミットへ送った婚礼用の贈り物。
扉の内側にウルムとカウフビューレンの風景を彩り、中央にガレノスとヒポクラテスを描いている。
図173.

ロココ時代の薬局(1750年頃)。

図174.

簡素で荘厳な調度を揃えた帝政風の薬局、1800年頃(スイス薬学史博物館)。 

図175.

ラヴォアジェの『化学原論』、パリ、1793年(カタロニア図書館、バルセロナ)。

図176.

アントアヌ・ロール・ラヴォアジェ(1743-1794年)。
(カタロニア図書館、バルセロナ)。
図177.

近代有機化学と中毒学の前駆者、マテオ・ホセ ・べナヴェンチュラ・オルファ。
図178.

大学の実験室に立つユストゥス・フォン・リービッヒ(ミュンヘン図書館)。

図179.
ギーセンの実験室にいるユストゥス・フォン・リービッヒ(1803-1873年)。
ウイルヘルム・トラウトショールド作の水彩画(1840年頃)。