自然と身体ではかなりの相違があり、無機薬品は中世のガレノス説の治療に比べて、毒性が強いと受け取られていた。中国には公認の専門家ではないが、人に投与する目的で無機薬品、主に水銀を取り扱った研究者がいた。自然の探索者である道教の弟子たちが、不老不死の秘薬を求めて活発に研究活動を行っていた。彼らの技術は錬金術である。水銀、鉛、金などの無機薬品を大量に使用した。しかし、服用した結果は期待したものとはまったく逆のものであった。
公的な学問である儒教では治療の目的で、錬金術より相当に少量の無機薬品を慎重かつ厳格に投与した。無機薬品は公定の薬ではなかった。こうした初歩的な錬金術がアラブ世界からヨーロッパに伝った。そして西洋のキリスト教徒の学者が技術を駆使して、無機薬品を治療用の武器とすることができた。
西洋医学史でもっとも論争好きだった作家のテオフラストス・ボンバストス・フォン・ホーエンハイム(パラケルススと自称し、この名が有名)は、その著書を通して一番厳しくガレノス説に反論し改革をすすめた。1493年にスイスのアインシーデルンで生まれて、1541年オーストリアのザルツブルグで亡くなっている。彼はすすんで波瀾に富んだ人生を歩んだ。直感的に信念にもとづき、確証がない学説は認めなかった。その考えはやがて固まり、自分は医学知識を刷新するための神の使い手の一人(使い手そのもの)であると確信するに至った。パラケルススは当世の風潮に逆らって人生を歩んだ。人の健康と本質を性急に研究しながら人生を送った。自然観も医学論(自然的、病理学的、治療学的人類学)と同じで、ほとんど伝統的な思考を無視したものであった。もちろん、パラケルススはガレノスの医学論を完全に理解していた。フェラーラで医学を学んだのは確かなようだ。同時代のタルホイザー(1536年)は「医と薬の博士」と呼んでいる。父は医師であった。テオフラストスは情熱を込めて、幻想的で共感的な自然研究をはじめたが、その他にも学会に自分を認めさせねばならなかった。
パラケルススは若い頃、「自然学」に関して「自然の魔術」の教師ヨハネス・トリテミウスに教えを受けた。パラケルススはトリテミウスの一番有名な弟子コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムと意見を交換した。セレニスマでの軍医とフッガー家の内科医としての経験が、パラケルススの医学論の基礎となったが、これにガレノス派と新プラトン派錬金術という二つの相反する性質が加わった。もっとも、最初の要素(ガレノスの遺産)は、やがて経験からえた知識により否定されてしまう。こうした思想が確立したので、パラケルススの思想形成に直接に影響したもの、すなわち最初にトリテミウスとアグリッパの研究で最高潮に達した錬金術の影響について検討するのが得策だろう。
宗 教 、治 療 、 錬 金 術
前述のように中国の錬金術はイスラム世界を経由して、ヨーロッパに足掛かりをえた。中世のガレノス医学を体系化したラーマン・ルルールと、国王や教皇の医師ヴィラノヴァのアルナルドの二人は、封印された西洋の医学思想を開放した非常に重要な人物である。このような線で繋がり、アルナルドとジュアン・デ・ルペシッサの弟子ヨハネス・ヒッポダムスなど14世紀の錬金術師は、やがてパラケルススの著作で採用されるような概念を創りだした。西洋の治療に無機薬品が登場という本章のテーマを調べるには、この不毛な科学を古代から調査する必要がある。この観点から私たちは偶然にも、4世紀の中国から16世紀のヨーロッパに至る繋がりを調べることができた。中断せずにさらにつづける。
道教はアルナルドやパラケルススの思想の基礎にはなりえない。では、錬金術の起源となる哲学とはなんだろうか。歴史家の多くは新プラトン主義をあげている。この思想は15世紀にイタリアの人文主義者マルシリオ・フィッチーノの著書にあり、アリストテレスの思想とは対極の立場を支持した。この学説では人間の精神が神と一つ(神の完全なる知識)になるのが願いである。目標を達成するには、現世のすべてのものを拒否して精神化し、最高の啓示である永遠に純粋な知識を求めなければならない。
この思想派の多くは、錬金術が神秘的な認識と結合して自然の秘密を解明し、創造の書に知識を与えて、もう1冊の神の書(聖書)を補正し解説する方法が理想的だと考えている。卑金属から金への転換が錬金術教育の象徴となったのは当然である。要するにアラヌスが門弟の一人に、「息子よ、技術を超えたところに神をおきなさい、技術は神が望むすべての人と分かちあう神の賜物である、それゆえ、辛抱して神を讃えれば、技術が身につくだろう」といった言葉の意味がこれである。
新プラトン主義の哲学を基礎とする錬金術は、無機薬品の世界を理解しようとする少数の人たちよりも、多くの人から注目されたようだ。そして、忘れてはならないが、パラケルススは自然が地殻のなかに隠した大きなルツボをわかっていた。労働病理学の最初の研究である『鉱夫と鉱山の疾病』で、フッガー家の鉱山に埋もれていた金属の世界と鉱夫の身体に潜伏する作用を発見した。パラケルススは炭粉症と珪肺症をとりあげ、鉱山の粉塵吸入が原因であるとした。純粋な知識に柔軟に対処できたとしても、このように仲間たちが疾病に罹患するのをみれば、とても耐えられる人はいない。賢者の石を分離して、神と一緒になろうとした研究は失敗した。すべての創造物(その総体が人間)を創る技を知らなければ、とても自己実現はできない。もちろん知識は探さねばならないが、変革のなかで創造物の完成に役立つ有効な知識が必要である。神が望んでいるのはこれで、それ以外にない。テオフラストスも、「人類は創造物を消費する運命をもつ。この消費を錬金術と呼ぶ」と認めている。
このように有毒な薬に変換できたが、自然に起こる疾病も治療できるような無機薬品はないだろうか。パラケルススは、人類が実際にガレノスの学説と相容れないホメオパチー療法の考えにむかって、第一歩を踏だしたと答えるだろう。
ガレノス派は熱や湿といった質の悪化には反対の冷や乾の質が優位な薬で阻止すべきであると考えるが、「生命力=健康、疾病=健康の逆で、この二つの状態が互いに対立する」というホーエンハイムが唱える学説とは反対の立場をとっている。疾病と薬の間には大きな対立はない。ホメオパチー薬のラベルに、水銀などの毒薬を少量使用と表示すれば十分かもしれない。十分でなければ、「したがって、鶏冠石は鶏冠を治療し、水銀はメルクリウスを治し、メリッサはメリッサを回復させ、心臓は心臓を治し、脾臓は脾臓を治療し、肺臓は肺臓を治す」というパラケルススの証言を聞いてみよう。この不思議な確信には新たな難問が含れている。パラケルススが心臓、脾臓、肺臓を薬としてとりあげる場合、一体なにをいわんとしたのだろうか。幸いにパラケルスス自身がその謎を、「雌豚の心臓、雌牛の脾臓、山羊の肺臓ではなく、大いなる人間(大宇宙)のそれぞれの臓器」だと答えている。
今日の作家はパラケルススが宇宙の有機組織体(人間)を科学の基本だと考えていたとみている。宇宙は万物であり、恒常的に生命を営む人間のように動く。この宇宙の一分子である人間は、自己の身体内に存在可能な宇宙(小宇宙)をもっている。このように小宇宙は大宇宙の小さな複製物である。世界に存在する万物は人間のなかに存在するものと密接に関係する。アインジーデルンは自然にある万物が人間にもあると考えた。彼の革新的なホメオパチー論の根本的な存在理由が、こうした関係のなかにみられる。自然の存在物はすべてが無毒で無害である。物質が人間に係わる方法だけが身体を損傷する。人の体質や薬・毒物の間にみられる外観的な相違はまったく無秩序で、この相違を管理するのが錬金術師の仕事であろう。
パラケルスス説の治療法
治 療 の 基 準
私たちはパラケルススがなぜ本質的に医学を治療や治癒術である治療学として理解したかを学んできた。もちろん、最終的に医師はみな実践を通して、患者の健康をとりもどし、意欲的であれば人間性の回復を求める。「医師とはなにか」との問いに「疾病を治す人」と答えたパラケルススとヴェサリオの違いを明らかにするには、かなり考察を加えなければならない。パラケルススの医学論はどんな場合にも最終目標は適正な治療法であった。パラケルススの思想は「治療学的」で、彼の意見によれば各個人に必須な薬を定めて、これに合う疾病を診断する医学知識が必要だという極端な考え方であった。このためヘレボルス病、マツヤニ病などがあった。
次いでパラケルススの研究で重要な役割を果した医学論について考察してみよう。疾病を治療するには、とくに体内で発生し病的状態になる病因と変化を説明しなければならない。パラケルススの著書にその前段階として、最初の革新的な発想がみえる。病因論に関して最初は、身体に侵入した外因物質で疾病が起こると述べている。ガレノス学説に対する体液論者の解答に接した結果、病因を患者に結びつけて解釈しようとした。たとえば、消化不良で起こる質の変化は、症状発現の原因であると考えたようだ。パラケルスス学説は、ガレノスの体液説よりも外因物質説と思われる。
この病因論は当然であるが、鉱山での経験により生まれた。さらに、パラケルスス派の考察をつづける。病態生理学も拡散的な体液病理学から、局在化した理論に変ってきた。体液論派では体液の質の不均衡(悪液質)が全身の性質を示すが、パラケルスス説では有害物質が局在して化学的変化を起こし、器官の病変を誘発する。現代用語では「標的器官」と称する。本理論によってパラケルススは新種の疾病を定めた。西洋医学史では最初に化学的な基準にもとづいて疾病を分類した。「酒石病」と呼ばれた疾病があり、この病はワイン樽の内壁にできる固形物や地獄の一部屋とされていた酒石で発症すると考えている。おそらくパラケルススの心のなかには、人が罪により追放された世俗の世界(カガストラム)いたる苦悩の原因を取り除くのは自分であるとの二つの思いがあったのだろう。この種の疾病には結石症、動脈硬化症、固形物が器官の組織に沈着する疾病すべてが入る。疾病と罪の関係、局所的・化学的な病理学の解釈、疾病の外因物質説の宣言は、パラケルスス治療学の基本原理である。パラケルスス治療学は革新的にならざるをえなかった。
パラケルススによる最初の大変革は薬物論におよんだ。前述のように医師が使い方を知っていれば、すべての天然物が薬理学的に有用であった。この場合の知識とはなにか。簡単にいえば自然界(動物、植物、鉱物)ではいろいろな姿で結合しているので、対象とする物質の本体を生みだす原理を発見することである。人が周囲を眺めてわかるのは自然の存在だけであるが、そこには表面に現われない原理がある。その原理とは人の身体、植物体、鉱物体に共通するものである。その一方で、パラケルススは外因物質がどんなものであろうと、先天的な疾病の「種子」が活性化したときに発病すると主張した。この種子にもとづいて、医師は患者を診察して的確に臨床徴候をとらえる。このようにパラケルススの治療学は病因学にならざるをえなかった。
さらに彼は、多数の成分を含有するガレノス薬に接したのち、表示が不明だが成分が実際に治療効果をもつ単一剤を探しだす必要性を主張し、反対の立場を鮮明にしたようだ。錠前の鍵のように、疾病の特定の種子に一つずつ適合するのが生命力である。パラケルススはここでも、非局所的疾病観を基本とし、全身を刺激して発熱や発汗を誘発する薬を使う伝統的な治療学と衝突した。この生命力のテーマに関して、もう一度、前述した二つの影響を考えてみよう。シッパーゲスはビンゲンのヒルデガルドが残したの中世の神秘的な著書を調べ、生命と若さを保つ原理(生命力論と活力論)に類似点がみられると報告している。一方、デーブスは天然物に真の「効力」を与えるには、化学的な蒸留(パラケルスス法)が必要だとするジュアン・ド・ルペシッサの考えに注意を呼びかけている。
すでに述べたように技術的な理由と観念的な理由が一つになって、錬金術の実践にはパラケルススが不可欠な人となっている。その他にも人間(小宇宙)に関する研究へ誘う多数の自然の書があり、いろいろな学説に巡り合える。
水銀のような無機毒が表在性の潰瘍を治すなら、疾病の種子が開花した体内の潰瘍も治療できるのではないか。薬の植物性や動物性は問題ではなく、分離する技術(分離術)が習得できれば、二者のもつ本質が重要なのだ。こうした理由から医師は、「本物と偽物の鑑別法を教える錬金術や分離術を習得するとともに、私たちは自然の光でしか治療できないし、空想から推測すべきではない」と提言している。
無 機 薬 品
パラケルススが疾病ごとに適用する薬を入手する方法を学んできた。これまで特定の「質」や「外観」をとらえてきたように、誤った見解で薬を選択してはならない。身体の「星の性質」で薬の選択が定まる。この特定の性質は疾病、対応する器官や薬が共有し、医師が徴候を診断して決まる。したがって、医師は徴候の解釈法が理解できなければならない。表徴論ではランの球根は睾丸に似ているので、催淫剤として有効のようだ。ペルシャカリアの赤い株は外傷に有用であり、同じように多数の植物や無機薬品にもあてはまる。これらを一度発見したら、医師は必要な生命力を与えなければならない。植物を原料とする薬に関する限り、パラケルススの研究がガレノス派の諸先輩や同時代人よりも優れていると考えるのは難しい。しかし、パラケルススには無機薬品から生命力がえられ、また無機薬品の発見が簡単で処理しやすいため、植物に寄せていた関心は薄らいでしまった。パラケルススが私たちにマッシュルームがヒ素と同じ作用を有するという場合、彼がヒ素を選んで使うのは当然だろう。
パラケルスス派最大の武器庫に植物薬がまったくないようだが、私たちの研究によれば彼は鉱物界から大へんに有効な薬をとりだし、それが西洋医学に組み込まれている。こうした価値ある変革は非常に興味深いものがある。パラケルススの手法では毒薬を毒薬とせず、むしろ良薬だと考えてホメオパチー観からこれを疾病の種子に対する毒薬とした。このためパラケルススは無毒な製剤を手に入れて、薬用量を定めなければならなかった。この分野における最高の勝利は、ルネッサンス時代の疫病である梅毒に有効な水銀をえたことであった。ユソウボクはフラカストロが誉めたたえて以来、恐怖の病に有効な薬となった。パラケルススは自著の『ユソウボクについて』で効果を否定している。ユソウボクの適用による一時的な効果に対し、自分の水銀製剤を使って反論した。水銀製剤は当初、辰砂を水とアルコールで洗淨して造った。つぎに有毒な水銀中のイオウを海水からとった塩と加熱し、酸化して硫酸塩をえる。この硫酸塩は器官に貯留したり蓄積する危険性を除去してあるので毒性がない。一方、パラケルスス自分が製造した水銀誘導体を使用し、浮腫の治療によい利尿作用を発見している。
パラケルススによる無機薬品の薬理学領域における発見はこれだけにとどまらない 。水銀につづきアンチモンにも高い関心を寄せた。彼が調製したアンチモンは、排便後に回収して再利用できるので永遠丸と呼んだ。クレチン病(風土性の甲状腺腫)と水中の無機薬品の含量の関係を明らかにし、パラケルスス派の無機薬品療法に水治療法と温泉療法、温浴の利用といった大きな成果をもたらした。前述のようにパラケルススは自然という偉大な錬金術の宝庫に詳しいので、暗い時代に失った健康の保護を見過せなかった。
このほかにも化学実験室でヨーロッパで一番、健康によいとされる水を分析し、のちに中欧の医師が16世紀の間ずっとつづけた運動を開始した。以来この運動は医師が患者に純粋に経験的な治療法を基礎として、ラガズやサン・モリッツの水を与える習慣を超えるものとなった。一例をあげれば、パラケルススはサン・モリッツ水の効用を賞賛する場合、水が酸性で胃の消化を刺激して結石症を予防するからだとした。しかし、非酒石病用のマグナ療法の研究は成功しなかった。「万能溶解剤(アルケスト液)」を造る実験は失敗した。パラケルススに帰する化学・薬理学上の発見を解説し終えるには、エーテルの麻酔作用について検討しなければならない。パラケルススがアルコール、イオウ、少なくとも麻酔性を有する誘導体を錬金術で処理した結果、エーテルを発見した。動物実験でその効果を試した後に、てんかん患者や痙れん患者の治療に使うことになった。
パ ラ ケ ル ス ス の 薬 理 学 に 対 す る 評 価
観念も実物も前述の諸点を考えれば、パラケルススが薬と医療の歴史で果した役割がいかに重要か明らかである。テオフラストス・フォン・ホーエンハイムの治療学がどんなものか問題点をまとめてみよう。
「無機薬品の再征服」。水銀、アンチモン、ヒ素、イオウ、銀、金などの新製剤を収載した。こうした薬は既知物質による治療を改善するが、同時に一般には有毒なので使われなかった。
「薬理学研究の化学実験室入門」、「治療基準の簡素化」。パラケルススは天然物の作用原理を研究しているが、ガレノスの複合剤と対立した。
「病因学にもとづく治療の確立」。薬理学上、生命力は疾病の種子に作用しなければならない。この治療観はすでに考察したように当然、特異的である。各疾病の種子は対応する生命力でしか破壊できない。
「治療に関する医学思想の活発な展開」。疾病の種子に対応する特定薬があるとするパラケルススの意見を支持し、フォン・ヴァイツゼッカーが薬と食事の役割の交替が起こると述べているが、これはライン教授が「治療に関する興奮」と呼んだことと同じと思われる。
「治療基準の個別化」。薬は各症例で異なった挙動を示すので、使った処方せんや処方は効果がなかった。パラケルススにとって薬とは、「風で動く船のような」ものだ(シッパーゲス)。
パラケルススに矛盾がないかといえばそうではない。アッカークネヒトによれば、本質的にはつぎのような矛盾があった。a)パラケルススは、治療は個別にすべきだと教えたが、「普遍的な解決方法」を求めた。b)自分は処方を非常に複雑にしたが、処方の簡素化を提唱した。c)彼は自著で瀉血療法に反対したが、結局、処方した。とにかく現在では、本書の著者も例外ではなく、一人で二つの姿をみせるパラケルススを「時代の先端を行く、いわゆる名士の一人」だとする人はいない。当時、パラケルススは新時代の人で、優れた人物であった。非常に多数の著書を残した作家で、また同時に非常に誤りが多く著作が中断した。しかし、彼が中世の伝統を信ずる点を考えれば理解できる。彼の創造的な研究は後継者たちの発見で立証された。
パ ラ ケ ル ス ス の 後 継 者
パラケルススの功績は、いつもパラケルスス流の知的活動を通して新たな発見ができ、また親方の思想をついだ後継者がいたことである。ホーエンハイムの後継者たちは、バロック時代にローバート・ボイルが正確で体系的な化学を創設するまで、燃えるような思いで化学思想を教育した。ロペツ・ピネロは二世代のパラケルスス派ついて書いている。第一世代は16世紀の第1三半期にはじまる。このメンバー
はパラケルスス医学に反論するガレノス派の攻撃に対し、すべての面で対応する不愉快な仕事であった。第二世代では17世紀の前半で
一番有名な代表者はベルギーのヨハン・バプティスト・ヴァン・ヘルモントである。パラケルススと直接の関係はなかったが、17世紀後半の医化学派シルヴィウスやウィルスとともに、先頭に立って親方の創設した化学派を支持した。パラケルスス派の第一世代のなかで最高の知識をもった作家として、クロール、ポーサー、ソーレンセンがいた。パラケルススの著書を中傷したフィロラバンテとツルーネイサーは、本物の山師で反対派を支持した。ガレノス派のトーマス・リーベラーは、パラケルスス思想に関してもっとも頑迷な反対者であった。ライン教授は錬金術から化学に変えた最初の人はアンドレー・リボーだと考えているが、このリボーやダニエル・セナートなど一流の知識人である医師だけが、ほかのヨーロッパの医師たちが反対するパラケルスス派の活動を認めた。
パラケルススが創った化学薬は、王立ロンドン医学校が出版した『ロンドン薬局方(1618年)』で広く認められた。この薬局方は、オスワルド・クロール著『化学の聖堂』の影響が強い。パラケルススの後継者やその他の人たちは、親方から遠く離れることができた。
パラケルススが発見したアンチモン丸、水銀製剤、エーテル誘導体は17世紀の間、ルチアナ水やパラケルスス甘味油の名で使われた。概念上、パラケルススとはまったく違った研究成果の薬も登場した。私たちはパラケルススがルペチッサとビンゲンの尼僧の影響下で(明らかに中世思想にもとづいて)、もっぱら蒸留物を純物質として研究したことを思いだす。
リヴァビウスやクロールのような近代的な作家は、蒸留でえた沈殿物に関心をもった。カラメルがその一例で治療に使われたが、こうした第二の物質がえられた。薬用水の定性分析がもとで、作家たちが実験室で薬用水の製造をはじめた。その一人にジョン・フレンチ(1650年)がいる。彼は温浴でえたモデルを作りあげた。ヴァン・ヘルモントは全身用のパラケルスス薬を改良した。すべての治療は特異的でなければならないと考え、この特異性を病因の基準とみずに、病態生理学の基準として捉らえた。彼の意見によれば薬とは、パラケルススが指摘したように疾病の種子を破壊する作用でなく、動物エネルギーと物質の処理(アルケウス)を治療学的に変えて、疾病の原因を減らすものを指した。また、パラケルススが魔術を使って、錬金術以上に化学を遠ざけて、堕落させたとする考えを否定した。彼の判断では、最高の効果を有する薬はアルケスト液であった。ホーエンハイムが夢にまでみた薬で、本物と思った液である。しかし、これは幻想にすぎないことがわかった。
次いで17世紀の第2半期に活躍した医化学者をとりあげる。医化学運動とは生命活動のすべてを典型的な化学的処理の発酵で解釈し、化学を基本とする医学校とともに、停滞するガレノス主義をなくす動きである。この派の著者によれば疾病は器官内で発酵が変化して発病するのである。理論上、治療は疾病の矯正に向けられるべきである。先頭に立つ医化学者フランツ・レ・ボー(シルヴィウス)とトーマス・ウイルスはこうした仮定に立って、伝統的治療学と新しい無機治療学を継承した。
シルヴィウスは「ひどく酸性」になった患者の血液をアンモニア塩でアルカリ化した。ウィルスは動物実験で植物薬と無機薬品を投与し、自著の『理論薬学』で理論化しようとした。動物の血液や種々の器官とともに、消化機構を使って作用メカニズムをみつけだそうとした。しかし、医化学者は今日では圧倒的であるが、当時は革新的でかつ批判的であるため一定の限界があった。正確に測定する近代化学の性格が化学元素の混合と結合を区分して、大へん巧妙な証拠を提示した。これはロバート・ボイルの化学で明らかになった化学観で、ウイルスやシルヴィウスの医化学と同一線上にある。この二人はともに非常に重要な人物だったが、医学論は他の医学方法論や医学研究法に道を譲らねばならなかった。全体としてみれば、二人のガレノス主義に対する反論は、パラケルススが開始した業績であったが、無機薬品が重要な役割を演じたモデル、すなわち新しい医学モデルへの道を開いて完結した。
|