表紙  序・訳者序  第 I 章  第 II 章  第III章  第 IV 章  第 V 章  第 VI 章  第VII章  第VIII章  第 IX 章  参考文献

第 II 章

 

古 代 社 会 の 薬


アウグスチン・アルバッラシン

 

 歴史を伝統的な時代で区分すれば、古代社会は古典期から395年にローマ帝国が崩壊するまでの時代である。時代を特定することとギリシャやローマと共存する世界中の原始文化を取り扱うという二重の難しさが、この時代の特徴である。本章では古代社会をとりあげたが、古典古代として知られドーリア人の民族性、言語、社会、文化の特性が最高に達したB.C.800年から、ビザンチンの覇権がはじまる395年までを論ずる予定である。

 

古 代 ギ リ シ ャ

 前期ミケーネ文明の海洋ギリシャは、原始文化の名残りとしてホメロスの『敘事詩』に記されているように、経験的/合理的治療魔術的/宗教的治療を同時に行ったり、あるいは交互に実施するとういう二重性が残った。

pharmakon(薬)はあいまいな言葉であるが、薬と毒薬に関する深遠な魔術起源説を含めた二重性を表わしている。pharmakonの特異的な作用は緩和な、優れた、有毒な、有害な、致死的、致命的などの形容詞がついていないとわからない。

 実際にホメロスの『イリアス』で最初に登場したpharmakonは、相当に魔術的な意味が強かった。しかし、前世紀末にオストホフは、『イリアス』で処置に使用した薬は「治療薬」としての性質が強いと報告している。アーテルは『イリアス』に登場するpharmakonが魔術や魔術薬を指し、魔術的なわく組みで処理され魔術思考のもとで使われたことを確認し、前記の説を否定した。

pharmakonを完全に魔術的な意味を脱し医学的な「治療薬」として扱ったのは、ギリシャの書籍ではヘシオドス作の『仕事の日々』が最初のようだ。この詩では薬を非魔術的な立場から解釈し普通の使い方になっている。アルキロコス、アルカイオス、ヒッポナスス、ディオグニス、ピンダロスの敘情詩では、比喩ないし隠喩的感覚で治療薬として扱っている。B.C.5世紀のエウリピデスとアリストファネスの韻文では魔術的感覚に逆もどりしたが、アッティカの喜劇と悲劇は新しい意味で使っている。

 ヘレスポント両岸の優れた冒険者たちは、B.C.8〜7世紀の間に継続して移住し、東は小アジアの海岸やエーゲ海の島々、西はマグナグラシア(シシリーとイタリア南部)に至る都市国家を住まいとした。彼らを論じないとB.C.5世紀からどんな薬がヒポクラテス薬になったか理解できないだろう。タレス、アナクシマンドロス、エンペドクレス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、アルケウス、デモクリトスなどソクラテス以前の哲学者が、宗教的・神話的宇宙起源説哲学的宇宙起源説に変えて、physisフュシス自然)という観念を創ったのはB.C.6世紀である。存在する万物が生まれる大もとの自然(世界と万物の実在の起源と根本)は、調和均整美合理性(真の構造は不可解で無限なロゴス-言葉・構造-を含む)、神性(自然はトテイオン-神)について、ギリシャ語の動詞phyein(誕生する・芽をだす・生長する)に由来するphysisやラテン語の動詞nascor,nasceris,nasciから派生したnatura(自然)すなわち生成力によって、一元論(普遍的な自然)と多元論(対象ごとの自然)に分れた。 

 自然を速やかなに分類することで、自然観の問題とその影響の大きさが明らかになる。ソクラテス以前の哲学者たちはこの問題に対処することが使命であった。確かに自然に関する一元論と多元論のアンチテーゼの調停が問題である。「元素」に関して種々の理論が展開されたが、エンペドクレスは全存在の主要な要素を4元素論空気)としてまとめ、自然における各元素の比率により、個別の存在や全存在の本質が変化すると説明した。自然の構成が一層、整然として美しく調和がとれているとき、その動きが美であり優雅だとされた。「自然は完全に自律しているので、教えなくてもなすべきことをする」。 のちにヒポクラテスの著作は、この性質の意味を有名な自然治癒力の原理として解釈した。

 クロトナのアルクメオンはこれを基本として、各元素に属する質の理論(対立する湿の組み合せ)を支持し、およそB.C.500年頃に、前述した自然観に立つ疾病論を最初の書籍として私たちに残した。その疾病論は病気や障害は一つの力や質が他の質を上回ると、発病するというものであった。この件について前章でライン教授が述べているように、真の薬に必要な技術的、合理的、科学的条件が何であるか、具体化しはじめた。もう一つの条件、つまり体系的な倫理観は、さまざまな内容をまとめた有名な『ヒポクラテス全集』にみられる。

 

「 ヒ ポ ク ラ テ ス 全 集 」 に み る 薬 学 の 役 割

 53節で構成される『ヒポクラテス全集』は、年代、主題、学派、学説に違いはあるが、共通の自然観で統一され、体系的な医の倫理の出発点となった。この倫理観はガレノスによって完成された。『ヒポクラテス全集』はB.C.5世紀から4世紀にかけて、さらにその後数世紀にわたり、原始時代の魔術的-奇跡的観から脱した。医学思想に対して経験的-合理的な取り組みが増え、この修業は真の医療技術に高まるまでつづいた。ヒポクラテスは質と一緒にエンペドクレス4元素が構成する自然に対し、共通する原理にもとづいて生物学の概念を高い水準に引きあげた。これは私が勝手にとりあげた知見であるが、ライン教授が示した複雑な方法で行った。体液は各元素に対応する質とともに、4元素がいろいろな比で相互に関連し合うものと考えられている。
体液も血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液の4種類である。この生理学の理論の概要を下記に示す。

 この思想を基本にしてヒポクラテス派の医師はアルクメオニスの伝統にしたがって、一つの質が優位になったときや元素の不均衡とか、現代風にいえば悪液質や体液均衡不全の状態が疾病であるとみなした。実施すべき処置とその理由に関する知識が純粋な経験から技術までの経過を示すが、ヒポクラテス派の人たちは、(元素の均衡や体液の分利)の異常を回復させる術が治療であると考えていた。また、医療行為とは、自然が天賦の治癒力で秩序を回復するのを助けることであった。

 これをどのような方法で、たとえば食事、薬、外科療法、精神療法で達成したのだろうか。アーテルとライン教授によれば、『ヒポクラテス全集』が収載する薬には、つぎのように三つの種類があり、魔術的な意味をもたずに使われた。その第一は望しい効果やその逆の副作用をもち、食物や栄養物との鑑別が難しくて、身体にとっては外因性の異物で、第二は症状を変える真の薬、そして第三がヒポクラテス派の医師が所持し、疾病を誘発する質の変化をとり除いて身体を浄化する下剤の3種を指した。

 このような理由でヒポクラテス薬に採用された薬の大半は下剤であった。下剤は体液の質を基礎に、また「異は異をもって癒す(contraria contrarris)」の原理で質を「撹拌」したり「吸引」する機構を支援し、浄化剤として作用した。しかし、下剤についてはほかにも考察すべき重要な問題がある。下剤や浄化の用語や医学的意義と、「習慣的な浄化」における浄化の意義が問題である。このテーマはアーテル、テムキン、ライン教授がみごとに取り扱い、彼らの業績によりヒポクラテス派が自然の一部と考えていた神性と関係があることが確認された。ドイブナーが明らかにしたように「犠牲者」とは、都市の悪霊を信ずる人たちが都市を浄化するために捧げた人(pharmakoi)である。

pharmakosが人称によってpharmakonになった。このようにpharmakonは複雑な経過を辿ったことがわかった。ヒポクラテス医学では古典文化期の慣習よりも、使用薬の数を制限していた。破砕した大麦を醸造して造る粘液飲料のチサンヒドロメール(蜂蜜・水)、オキシメール(酢・水・蜂蜜)、ミルクワインなどが広く薬として使用された。当然、下剤は重要な役割を果した。ヘリボー浣腸剤(とくにロバの乳や蜂蜜と塩の混合物)、茹でた砂糖大根、カブユーフォルビアベラトルム・アルブムの濃いジュースがこの例である。利尿剤としてタマネギとセロリが採用された。麻薬はほとんど使わず、ケシ坊主を圧搾して製するメコニウムケシの実が好まれた。アッカークネヒトらは当時使った250〜263種の薬用植物について報告している。動物薬は古典期時代に使用したものと同じで、脂肪胆汁ヒマシ油ロウカンタリスなどであった。

鉱物薬はその作用が人体に対して強すぎたので、かなり少ない。大きな丸剤、アルミナ(軟膏として外用に適用)が普及していた。酸化鉄は経口投与された。水薬錠剤パップ剤ペッサリー剤も薬の投与法の一つである。「最良の場所で収穫し保存用に処理した下剤、調製したばかりの新鮮な薬、その他の関連物質」など、「処方通りに調製した普通の水薬、軟化剤、茶剤、種々の薬」の適正な使用習慣が説明しているように、医師が使う薬の種類は相対的に少なかった。ヒポクラテス派の医師はエジプト人のように、自分で薬を調製していた。ヒポクラテス薬の意義と起源について検討する点が一つ残っている。起源についてだが、 原住民から自然に発生した経験的-魔術的思考や、ギリシャと接触した東洋文明の考えから発展したとみるのが論理的だろう。しかし、ライン教授がいっているように、「これらの薬を一医学派が技術と考えて、なぜ特定薬として認めた」か不思議である。「事後のことなので、その結果にしたがったてこうなる」という表現と、「観察で立証できる」との言葉は別にして、ライン教授R.ジョリーがバヘラードの精神分析法を応用し、薬を受け入れた理由は「評判(異国趣味、元気、匂い、消化)」であるとした的確な研究を高く評価している。合理性と技術はもっていたが、当時は神話の「人気」が高く無意識のうちにヒポクラテス精神に影響していた。

 

古 代 ギ リ シ ャ の 薬

 古代ギリシャの「先ヘレニズム時代」は、最初にクドリエンが英雄時代と名づけたB.C.4世紀で、B.C.332年のアレキサンドリアの創建ではじまる。思弁派は先ヘレニズム時代の潮流と元素を参考にするのが正しいとするグループだが、「独断派」と呼ばれた多数派の間で、早くも薬は時代を区分するうえでの特性となりはじめていた。カリストのディオクレスは、薬と毒物に関する一連の著作とともに、ギリシャ最古の『植物標本』を著わした。アリストテレスとテオフラストスの著書についで、薬に関する出版の時代がはじまった。アレキサンドロスの大遠征でギリシャの薬に関する知識が増えた。これはヘレニズム時代に起こり、エジプトから中近東まで領土が拡大したためであった。このような科学の進歩が二つの業績となって現われた。専門的な毒物学の文献が登場し、薬と毒物をはっきりと区別するとともに、当時の既知の薬や使用薬に関する目録とその性状について体系的な分類が行われた。B.C.4世紀の第2半期からB.C.3世紀の第1三半期に活躍したヘロフィルスとエラシストラトスによって、本格的に古代ギリシャ医学がはじまった。ギリシャ医学は科学的な自然が基本で、医師も思索的な自然哲学者や未熟な職人(テムキンは医者と表現した)でなく、解剖生理学を身につけた科学的な医師になっていた。この新しい地位とエジプトの薬の参入や、当時は反ヒポクラテス思想が特徴である伝統的治療法に対する新たな評価が結びつき、ギリシャ医学は薬物学の分野に特別な意義を与えた。ヘロフィルスは薬に「神の手」の地位を与え、さまざまな薬の処方を書き、その一部はガレノスにより後世に伝えられた。ケルススはヘロフィルスに薬がなければどんな疾病も治せなかったと述べている。エラシストラトスについても同じことがいえる。下記のことがもっと重要である。私たちはマンティアス、アパメアのデメトリアス、ラオディケアのゼノ、カリストのアンドレアス、アポロニウス・ミス、フィロクセノスが、薬について書いたのを知っている。これらはすべてケルススとガレノスの著作に伝わっている。しかし、総論としての医学と各論としての薬学における科学と自然の地位はやがて反対の関係、すなわちドッズの表現を借りれば、コス、スニド、そしてアテナイの一部のギリシャ人にとっては「自由への恐怖」となった。コスのフィレネとアレキサンドリア出身のセラピウスにより、新しい経験派が誕生した。この運動は経験、歴史、推測にもとづき、理性(ロゴス)よりも経験を通し初期のヒポクラテス主義の精神にもどろうとした。こうした姿勢により、薬は実践的で治療によい方法であると評価が高まった。マンティアスの弟子であるタレントのヘラクリデスは『薬物詳解と試験法』で、B.C.230年頃の薬について批評している。彼は経験にもとづき、さまざまな鉱物薬について述べている。経験派の門弟が多数、同じ路線上で仕事をした。アポロニウス・ビブラス、ヘラス・ド・カパドキアのほかにも多くの人たちがいる。効果に関する経験的知識を追加した詳細な薬物知識は、薬の有益性を高めたようだ。しかし、J.ベレンデスが指摘したように、医薬に関する本当の科学知識は不十分であった。新薬の探索がはじまった。民衆が期待する薬(populus remedia cupit)は後世のローマ時代の言葉である。こうした薬は複雑で論理に一貫性を欠き、多くは迷信で汚物薬局の分野では架空の名(ペオニオン、イウピター、アニケトン)がつけられた。ワニの糞便が人気であったが、効き目がないときには嘘が露見したとのことである。このようにして、多剤配合薬の軽薄な乱用が起こった。一方、ギリシャ医学がエジプトと東洋の魔術思想と接触し、魔術的な水薬、軟膏、燻蒸剤を使いはじめたのは明らかである。こうした逆の流れにもかかわらず、B.C.1世紀のクラテバスの著作のように、薬に関する伝統的な論文が進歩した。

 毒薬はいまでは魔術から分離しているが、その使用で政治が終焉したと記録された時代がある。毒薬は薬とともに重要な位置を占めていた。本題を含む第一のステップは、ヘレニズム時代の医学と密接に関連する詩である。コロフォンのニカンドロは、B.C.2世紀の第2半期頃に二つの詩篇で有毒な咬傷の薬としてテリアカを、一般の毒薬用にアレキファルマをあげている。彼は後の詩篇で2種の鉱物毒、8種の動物毒、11種の植物毒を述べている。ニカンドロとともに、アタロV世フィロメトル(ペルガモンの王)、ビチニアのニコメデスU世ミトレダテス(ポントスの有名な王)は有毒植物を栽培して、犯罪者や敵に使用し免毒化が予防に有用だとの発見に至った。ガレノスによればミトレダテスの解毒剤はポントス王の『賛美する動脈』に記載されていた。当初は54種の成分を含有し、のちには37種になった。

 

ロ ー マ の 薬

 B.C.3世紀からB.C.2世紀にわたる経験主義者の影響下で、クドリエンがいう「学問の停滞」状態がつづいたが、B.C.1世紀にギリシャ医学に二つの新しい医学思想派が生まれた。アタレアのアテネウス霊気学派を起こし、とくにエピクロス派の思想に影響を受けたメソディスト医学派は、ビティナのアスクレピアデスが創始者である。メソディスト医学派は本題にとって非常に重要である。ラオディケアのテミソンがこの改革者をローマに紹介すると、原子論よりも組織液が通る孔や径路の収縮や弛緩に関するアスクレピアデスの業績のほうが、地域社会や国の基本方針に新しい変化を与えた。今日では薬の使用に関するアスクレピアデスの説はほとんど消えてしまったが、テミソンと門弟のトラレスのテサルスが、ヒポクラテス医学で重要な「異は異をもって癒す」の理論、すなわち新しい観点から収斂剤や緩下剤の治療効果を応用して、ガレノスが伝えテミソンが配合した数例の処方薬を使った。メソディスト医学派では、アスクレピアデス・ファルマキオン、キント・セクスティオ・ニーガー、ニケラトらが薬物書を執筆している。ギリシャ医学が確実にローマに伝わると、父親が家庭療法で使用する普遍的な万能薬であるキャベツを基本とした単純な家庭薬は、メソディスト医学派の病因除去療法とともに、キプロス、カパドキア、シリア、エジプトやポントス、アフリカ、スペインなど外国産のものが多くなった。こうした地理的に遠い地域で、新しい植物薬や動物薬が慎重に探索された。粗悪品の危険はあったが、主都のローマに送られた。百科事典派のケルスス、ヘロドトス、アンチルスは時折、プルニウス、ケルスス、アンドロマケス、モスキノン、アプレニウス、エスクリボニウス・ラルグス、ルフス、ゼノクラテスのように薬物書を上梓した。

 毒物学を調査してこの問題を発展させた人たちにアンドロメクスがおり、彼の『解毒剤』は有名であるが、エリウス・プロモツス、カパドキアのヘラス、マリン、セクツス・エンピリクスもいる。彼らはみな、当時最大の記念碑で1世紀(77〜78年)に出版されたアナザルバのディオスコリデスの『物質』または『薬物書』のおかげで影の薄い存在になってしまった。ディオスコリデスは多分、アレキサンドリアとタルススで勉強し、ローマ軍のアジア遠征に従軍して植物学と薬物学の知識を蓄積したと思われる。彼の著作はプルニウスの『博物誌』と同時代の作である。プルニウスはディオスコリデスのすぐ後に書いたが、ディオスコリデスの著作を知らなかったのは確かである。

 ディオスコリデスの『薬物書』は現代でも非常に重要な書籍で、とくに民間の迷信とは無縁な内容である。本書は5巻からなり第1巻は芳香剤、軟膏剤、油、樹木、樹脂、樹液、果実で、第2巻は動物、動物薬、穀物、野菜、第3巻は薬草、根、抽出汁や圧搾汁、種子、第4巻は薬草と根で、第5巻はワイン、鉱物薬をとりあげている。別の2巻はディオスコリデスの著作ではなさそうだが、毒薬、解毒薬、有毒な動物咬傷とその薬を上記の書にしたがって分類している。この『薬物書』は全体として500種の植物薬、35種の動物薬および90種の鉱物薬を載せている。記述内容は他の医学派が行った研究とともに、著者の直接体験にもとづいて書かれ、解説方法は終始一貫ており、薬の性状、同義語、偽造品の立証、作用、医療での適用である。全体としてローマとアレキサンドリアの薬物学は、直接ヒポクラテスのギリシャの伝統に結びついている。いつも医師自身が調製していた薬、投与法、治療効果などが載っているが、すべて同じであった。アレキサンドリアのメソディスト医学派の医師は、自然治癒力を念頭において薬を調合した。実際、彼らは「自然は助けにならないばかりか、有害な結果になりやすい」と確信し、はっきりと治療に対する意欲を強めた。一般的には、ディオスコリデスが効率よく体系化した莫大な数の治療用の武器は、最近までこの領域における基礎的な役割を果し、また古代社会で重要な薬学革命の時代を開いた。

 

ガ レ ノ ス の 業 績

 医学思想には多数の学派があり、また共通の科学基盤がなかったことが原因で、結局ギリシャ医学への信頼が失われてしまった。医学知識を教理化した体系的著作、すなわちペルガモンのガレノスの著作が大いに必要であった。彼の偉大な治療に関する論文『治療術』は、14巻で構成し二つの段階に分けることができる。最初の6巻は169年にはじまる二回目のローマ滞在時に、残りの8巻はセプティムス・セベルスの統治時代(193〜200年)に書かれた。162〜166年の最初のローマ滞在時に『下剤の作用』を著わし、その3〜4年後に『単一剤の作用と質』(第1〜8巻)と『緑内障:治療術』がつづいた。第9〜11巻は『治療術』の第2部と同じ頃の作で、『人体の各部』と題した書とともに、単一剤の作用と質について述べた『種としての薬物組成』から構成されている。栄養剤と薬の概念について、結局、ヒポクラテスの時代からだれも明確に区分しなかったが、ガレノスは最後の2巻『食物の作用』と『食物のよい体液と悪い体液』を作成している。ガレノスはまたその後、毒物についても調査して、『解毒剤』を著わしている。ガレノスの業績に貢献した情報源や著者としては、ヒポクラテスではじまる「先達」とルフスやディオスコリデスのような「同時代人」がいる。

 ガレノスの治療に関する思想の全貌はこの点について、著者が自著の『診察する医師』のなかで、「外科医が外科的処置で治す疾病を食事や薬で治せば、その医師を経験豊かで熟練した科学的な医師だと思う」と述べている。事実、動物、植物、鉱物という自然界における3分野の知識が増えたなかで、ガレノスの治療に対する関心事は、ガルシア・バレステルが指摘したように、経験性、経済性、社会性、宗教性が不明瞭なために、日常の業務を行うときに多剤療法という偏りや乱用を引き起こした。

 適正な治療基準としてのガレノスの自然治癒力説はヒポクラテス路線に沿うが、メソディスト医学派の「改革」とは異なり、名医の治療に対する心構えの基本となっている。

 最後に動物の本能である誘引、保存、変化、排除の四つの力が、自然治癒力を決める。しかし、ガレノスはそこで調査を止めなかった。もう一つの科学的な治療学派を設立しようと別な歩みをとりながら、「指示」の概念を取り入れて「各症例でなにをすべきか」わかるようにした。ライン教授とグラシア・バレステルは治療の指示についてガレノス説の体系、すなわち疾病の性質と経過、疾病や苦痛が侵襲する臓器の性質、患者の生物学体質、外因性の有害物質や作用の4基準を研究した。

 このようにしてガレノスは今日的な治療の意味で厳密いえば、指示された治療(治療の指示)が決ってから薬を使いはじめた。ガレノスは生体内で変化するのが薬で、食物は概ね体重の増加を招くといっている。この変化の確認する方法は、一つの質(熱・冷・乾・湿)に対する作用をみるか、一つの原理と二次作用による複数の質への影響を観察するか、あるいはまた催吐・緩下・解毒・催眠作用などの特異作用を介して実施することであった。薬理作用には「活動的作用」や「潜在的作用 」がある。火は活動的で熱であり、たとえばコショウは潜在的で熱である。つまり、ガレノスは薬の作用強度に関する評価を確立した。4種の等級分類は、感覚的に感知しうる程度(第1度の活性)から有害な段階(第4度)まで薬のすべての範囲におよんだ。

 『治療術』に関する基準の項で示唆したように、ガレノスは実際に複雑な方法論を定め、医学(薬)の質の研究、投与に関する量的条件、調製法や投与法、正しい適用期間について研究した。慎重にかつ人体の特性に対する深い知識を活かしながら、合理的治療学を経験した医師の監督下にあってはじめて、総合的な薬の使用効果が管理できるのである(ガルシア・バレステル)。その後、ガレノスによる治療術が真の医療技術になった。ガレノスが自由に扱った治療用の武器は、下剤、浣腸剤、催吐剤、収斂剤、利尿剤、通経剤など豊富であった。採用した薬として植物薬473種、塩・硫化鉱・土・碧玉・孔雀石・石膏などの鉱物薬、数種の動物薬が載っている。ガレノスは動物薬の作用の弱さや毒物の有害性とは逆に、植物薬は最良の治療効果をもつと考えていた。登場する剤形はその当時ずっと使われていた剤形と同じで、煎剤、注入液剤、丸剤、舐剤、散剤、含そう剤、樹脂、塗布剤、吸入剤、坐剤、浣腸剤、パップ剤などである。つまり、ガレノスは複雑な薬(複合薬が断然多い)を好んで使うとともに、アッカークネヒトが数年前によく述べていたが、多剤療法の支持者だったといえる。ガレノス医学以後から中世までは、M.シュミッドとP.シュミッドがよく研究しているが、たとえばオリバシオテオドロ・ポンチアーノの『ユーポリスタ』やキント・セレノの『偽アプレイウスの植物標本集』と『医薬品書』のように、ギリシャ、ラテン、ユダヤの研究者の著作を翻訳するだけの時代であった。翻訳家セリオ・オウレリアノもガレノスの著作はなにも知らなかった。それは伝統を脚色し調整する時代で、目先の変ったものが写本を飾る図として使われたにすぎない。いずれにしてもガレノスの業績である薬の理論化は、古代史ではのり越え難い鎖の輪となっている。


資料の説明

図41.

アスクレピオス、ギリシャの医神。
カメオの浮き彫り。
図42.

クノッソス宮殿から出土した陶製のヘビをもつ女神
(B.C.1600年頃)。
考古学博物館、ヘラクリオン、クレタ島。
図43.

クノッソス宮殿の玉座の間(B.C.1500年頃)。
クレタ島、ギリシャ。
図44.

エジプトのセラピス神に献納したセラペイオン神殿。
入口を通った建物の内部。3世紀、エフェソス、トルコ。
図45.

アポロンの彫像をもつデルフォイのオレステス。
足下に寝ているのが小さなエリニア。
背後にアポロンに敬意を表わして、床机、月桂樹、ヘビがある。
白大理石製、B.C.1世紀、ヘルクラヌスで発見(国立博物館、ナポリ)。
図46.

パルテノン神殿、東側小壁(B.C.477〜432年頃)。
アテナイの父神ゼウスが玉座におさまっている。
妻のヘラが結婚を象徴するヴェールをとりながら、顔をゼウスに向けている。
ヘラの左にニケまたはアイリスが立っている(大英博物館、ロンドン)。
図47.

アスクレピオスの円柱。
ペルガモン、小アジア。
図48.

アスクレピオスと家族を表わした木製の奉納額
(B.C.370-270年頃)。
アルゴリドのチレアで発見。
アスクレピオスの娘マカオンとポダリリオは外科医と医師の守護女神(国立考古学博物館、アテナイ)。
図49.

医神に捧げたエピダウロのアスクレピオス神殿。
病人に対して催眠儀式(潜伏)を行った。

図50.

エピダウロのアスクレピオス神殿の円屋根の廃墟
(B.C.360年頃)。
ここで医神に犠牲を捧げた。

図51.

医神のアスクレピオス。
象牙製、5世紀(リバプール美術館)。

図52.
ラオコニア人のカップ(B.C.565年)。
画家のアレシラウスの作品で、当時、植物のシルフィウスは薬味として人気が高く、薬としても使われた。
シレネはシルフィウスのおかげで繁栄した都市で、この絵ではシルフィウスがその都市のボートのなかにおかれている(国立図書館、パリ)。


図53.

水薬を提供する女神キルケー。
ギリシャのネグロポンテ島出土のアッティカの絵画(アテナイ国立博物館、ギリシャ)。
図54.

ミレトス市のギリシャの劇場、小アジア。
図55.

医学の発展に大きな影響を与えた学派の創始者ピタゴラス。ギリシャ製胸像のローマ複製、(カピトリネ博物館、ローマ)。
図56.

ミレトスのタレス、ソクラテス以前の哲学者で、フュシス(自然)の観念を創造した一人。
ギリシャ製胸像のローマ複製(カピトリネ博物館、ローマ)。

図57.
ソクラテスの胸像。ギリシャ彫刻のローマ複製(国立考古学博物館、ナポリ)。  

図58.
ヒポクラテスと同時代のプラトン。ギリシャ製胸像のローマ複製(バチカン美術館、ローマ)。    

図57. 図58.

図59.

アリストテレス。
プラトンの門弟で比較解剖学の父(スパダ宮殿、ローマ)。
図60.

テオフラストス。
アリストテレスの門弟で、生物学の著者として再認識された。
図61.
哲学者の一団。
左から右にゼノン、アリストテレス、ソクラテス、テオフラストス。
ポンペイ出土のモザイク画(国立考古学博物館、ナポリ)。


図62.

14世紀のビザンチンの芸術家が描いたヒポクラテス。
ヒポクラテスの著作は徐々に魔術的/奇跡的な古代の領域から脱皮し、より経験的/合理的になり、真の医学になった(国立図書館、パリ)。

図63.

ポンペイの家のフレスコ画。
上は水薬を提供している場面で、下は医の象徴(国立考古学博物館、ナポリ)。
図64.

ペダニウス・ディオスコリデス。
古代で単一の薬理作用を有する薬に関して、もっとも重要著作を残した作家。

図65.

510年頃のディオスコリデスのギリシャ写本。
クロイチゴの潅木の性状(写本はウィーンの国立図書館に保管、CPV Med.Graec。T,Fol.83)。

図66.

ディオスコリデス。
鳥とその他の家禽で、新鮮なものは薬として価値があった(CPV.Med Graec.1,fol.843 v.)。
図67.

ガレノスの肖像画。
14世紀(図書館。古代医学部門、パリ)。
図68.

5世紀のディオスコリデス写本の図。
植物学者クラテバス、アッポロニウス、カリストのアンドレアス、ディオスコリデス、コロフォンのニカンドロ、エフェソスのルフスと談話するガレノス(オーストリア国立 図書館、ウィーン)。