16世紀と17世紀に医師は疾病との闘いで食事、外科、薬という3種の伝統的治療法を活用した。この世紀の医師はどんな薬(とくに植物薬)を使っていただろうか。本論で明らかになるように起源植物の武器庫は、いわゆる医学人文主義、印刷法の発明、近代植物学の発展、古典時代の資料研究、ギリシャ語とラテン語からの直接の翻訳、そして近世人の探検の成果である地理上の大発見といった、この時代における一連の出来事に影響を受けた。
伝 統
薬を近代的な姿にした第一の要因は「医学人文主義」と呼ばれ、古典時代の資料を研究する活動、ギリシャ語とラテン語の直接翻訳、古代の偉大な医家たちの知識の解説、評論や注解を載せた書籍の出版である。
ライン・エントラルゴ教授は現在に対する不満や、過去が純粋で価値が高いとする郷愁から、医学人文主義が起ったと述べている。中世前期の終わり10年以降、大学教育を受けた医師などヨーロッパの文化人たちは、伝統的な古典の著者が教養の源であることを知っていた。当時の古典書はアラブの解説者を経由して、中世のスコラ学者が翻訳した。このように二重の手を経た翻訳は、内容が科学的に適切でないこともあり、文化人たちは偉大な医学作家(ヒポクラテス、ガレノス、プルニウス、ディオスコリデスなど)の著書に直接あたることにした。古典作家たちを直接翻訳することで、内容が変らない当初の純粋な教育をとりもどした。古典書を翻訳・訂正・解説する大きな組織が動きだした。
治療分野ではこの運動のおかげで、ギリシヤ・ローマにあった「植物標本集」の復刻版が生れた。テオフラストスの『植物史と植物起源』とディオスコリデスの『薬物書』がその代表である。16世紀にディオスコリデスの著作に簡潔な図解を入れて、自国語ばかりでなくラテン語やギリシャ語で7回出版された。ディオスコリデスを普及させるのに一番活躍した作家は、ピエール・アンドレア・マッチョーリ(1500-1577年)で、イタリア版は17回出版された。編集の成功は質の高い木版画と新しい解説にあったようだ。解説はいろいろな場所の薬草に関するマッチョーリ自身の研究業績であった。個人的な経験でえた知識を広げ、近代的な意見を述べた部分もある。同じような著作をポルトガル人のアマツス・ルシタヌス(1511-1568年)、スペイン人のアンドレア・ラグナ(1511-1559年)、ドイツ人のヴァレリウス・コルデス(1515-1544年)が出版している。文学史に新しい時代を開いた印刷機の登場により、医学人文主義者の著書は相当に普及し、その結果医学出版史についても大きな影響があった。たとえば、古代ギリシャとローマの著作は翻訳、論評、解説されて、関心をもっている読者の研究に提供された。医学人文主義者が復刻した著作にならって、ヨーロッパの印刷屋も木版画を使って薬草の標本集を発行した。アラブの作家の著作も出版され、メスエ青年の『処方集』とアヴィセンナの『医学典範』が再び広まった。
新 し い 植 物 標 本 集
ヨーロッパの医師たちは、古典作家の著作を直接翻訳した版に図と解説を多用した。中世のラテン語とアラブ語の著書も有用であった。こうした著書は現在出回っている『薬物書』の情報源として役立っている。ルネッサンスの人々も『薬物書』の価値を高めるのに大いに貢献している。近世の医家は植物薬に関する知識を翻訳、純化、論評、整理するとともに、植物を広範にわたって調査し、新しい植物薬を採集したり「新しい植物標本集」への登録を自由に行った。
技術面とともに二つの基本的な変革が、この世紀における植物学の進歩を支えた。植物を紙に挟んで適当な圧力を加えて保存し、硬質紙に広げて展示するようになった。標本植物は調査対象として郵便で交換が可能になったが、未変化のままの植物の特徴がはっきりしなくなった。本法はルチア・ギニー(1490-1556年)が採用し普及した。第二の変革は植物標本集に図を載せたことで、生きた標本から直接、植物画を作る場合もあった。オットー・ブルンフェルド(15世紀末−1534年)とL.フクス(1501-1544年)の作品が示すように、16世紀の木版画は実物に生き写しで美しく、植物の特徴が驚くほど写実的に描かれている。この時期の最大の傑作はアンドレオ・セラルピーノ(1519-1603)の『植物書(1583年)』で、収載植物は1,500種であった。性状、分類、そして発育と生理について解説している。15世紀には熱狂的な採集家が活躍し、つぎの100年間には最高の水準に達し、ガスパー・ボーイン(1560-1624年)は6,000種の植物を分類している。
近世の植物標本集の多くは、ドーエンス(1517-1585年)の著作のように別名、植物学的特徴の解説、発見場所、治療効果を記載している。この新しい植物標本集は、テオフラストスの植物園が示した進歩のように、当時の植物学の発展と密接に関係していた。13世紀のヨーロッパでは、中世の修道院にあった薬草園と異っていた。薬用植物園の基礎となった庭園がカステルヌーボとサレルノにあった。ルネッサンス時代は当時の収集家の傾向が一因で、また異国情緒を演出することもあって植物園が流行した。上流階級の人たちは異国趣味で遠い国から動植物を集めるようになり、バックハードの「世界と人類の発見」の言葉に合せて、変った時間を作りだしたようだ。このためルネッサンス時代に植物園が激増した。教皇ニコラスW世(1447-1455年)が最初にバチカン宮殿に植物園を開設した。北イタリアの諸都市ではピサ、パドア、フィレンツェ、ボローニャにこの種の庭園があったことがわかっている。他のヨーロッパ諸都市でも、ライデン(1577年)、ライプチッヒ(1579年)、モンペリエ(1592年)、パリ(1598年)に植物園が開園している。当時、大学教授は植物園から採集した植物を使って薬を講義した。単一剤(単一の植物薬)の教授職が医療専門学科に創設された。最初は1533年にパドア大学にできた。航海中に発見した植物相のうち良質なものが、こうした植物園で順化するようになった。植物のうちあるもの、たとえばトウモロコシ、ジャガイモ、マメ、パイナップル、ヒマワリの種子は栄養価が高く有用であった。イトラン、トケイソウ、アサガオなどは装飾用として価値があった。新世界からあらゆるものがやってきた。その他にも東洋からナスとチューリップが渡来している。薬用植物はやがて一番高価になり、金・銀とともに価値があり、植民地産の最高の商品になった。薬用植物園が普及した。セルビアでは16世の中期に、ニコラス・モナルデス、シモン・トーバー、ロドリゴ・ザモラノ、ファン・デ・カスタネダが所有する私営の庭園があった
新 し い 薬
私たちが調査中の16世紀と17世紀の2世紀に、薬の種類が非常に多くなった。ヨーロッパは見知らぬ植物の新たな参入を歓迎した。大航海で地球上を移動しながら新しい植物を発見した。中世の薬は基本的に極東との通商で大量に入手した、香辛料、香料および東洋の薬だったことを忘れてはならない。こうした薬は貿易路にあたる都市や交渉の仲介者にとって、非常に重要な商品であった。薬や香辛料はイタリアとドイツの銀行家が管理し、この取引で莫大な利益をえている。
未知への関心と冒険心をもったルネッサンスのすばらしい旅行家たちを駆り立てた主たる動機は、安く新鮮な薬と香辛料がえられる新しい通商路をみつけることである。コロンブスが発見した新しい西インド諸島は、スペイン王に貴金属だけでなく香辛料や薬も与えるものと考えられた。ヴァスコ・ダ・ガマは地中海の港湾都市を経由したこれまでの航路を変え、はじめて喜望峰の航路を開発して香辛料を運んだ。
スペインとポルトガルは新しい貿易路を発見した。教皇の大勅書が開発権を裁決した。その勅書でポルトガルは東インド諸島(ブラジルをはじめエチオピア、アラビア、ペルシャ、インド)を獲得し、スペインも西インド諸島の開発権が認められた。このようにリスボンのインド館をもったポルトガルと、セルビア商館を建てたスペインは、モルッカ諸島の開発権をめぐって紛争が生じたものの、東洋と西洋の貿易に好適な場を占めるに至った。帝国の銀行家は経済上は金・銀の船荷が一番重要だったが、植物薬の積荷を管理する方法も不可欠なことがわかっていた。スペイン王国は当時、最終的に新世界との貿易を独占していたドイツの銀行家(とくにフッガーとヴェルサー)に大きな債務があった。スペインとポルトガルがえた覇権はヴェネチアやアラブと衝突し、その一方でインド諸島との海上貿易ではドイツ、フラマン、イギリスの介入を受けた。結局、自由貿易が成立した。貴金属、植物薬、絹の独占は終わり帝国は崩壊した。
スペインはヴェネチアの権力を頼りに、東洋の香辛料と植物薬を手に入れていた。スペインが一番望んだ必需品は薬であった。香辛料は食物の味付けや保存に供するために求められた。コロンブスは第一次の旅行後、新世界にこのような物産があると報告して、カタロニア王のフェルディナンドとイザベラを刺激した。王と女王は新発見の土地で産する自然の富を調査する目的で、第二次の遠征にセルビアの医師アルバレス・チャンカを派遣した。海外への航海が当たり前になった。ベルナルジオ・デ・サーグン、ニコラス・フラゴス、フランシスコ・ヘルナンデス、フェルナンデス・デ・オビエド、ホセ・アコスタが率いた遠征隊の年代史家や征服者は、アメリカの植物相について記録している。
新世界ではメキシコの薬が一番豊富でよく研究された。フランシスコ修道会のベルナルジオ・デ・サーグンとフランシスコ・へルナンデスは共同でこの仕事にあたった。ヘルナンデスは『新スペインにおける薬の宝庫』で4,000種の植物を記載し、その1/3について名称、別名
、外観、治療上の特性、治療対象疾患、発育場所を解説した。新世界には植物薬を使用した十分な伝統があった。現地人の医師マルチン・デ・クルツが書いた植物標本集『インドの薬草目録(1552年)』と、モクテズマ皇帝がメキシコシティーで運営した植物園から、植物薬が豊富であったことがわかる。
新世界の植物調査隊が植物鑑定用の指針として使うために、ヨーロッパの植物標本集が必要だという声が高まった。アメリカの薬もヨーロッパに紹介されはじめた。ニコラス・モナルデス(1493-1588年)は新世界に一歩も足を踏み入れなかったが、多くの場合、彼のおかげで植物の知識が広った。
モナルデスの2冊の著書のうち、1冊は『西インド産の医薬品』で1565年にセビリアで出版され、1569年、1571年、1574年、1580年に再版された。フランシスコ・ゲッラはこれを大へん詳細に研究し、文明国とされるすべての国の言葉に翻訳した。モナルデスは当時、セビリアの医師として有名で、同時に新世界の貿易にも深く関与していた。彼は著書でインディアン(西インド諸島の現地人)は、鉱物薬と植物薬を採用していると述べている。反趨動物の消化管にできるカルシウム沈殿物で、毒物の解毒剤と考えられていた胃石が、多数の鉱物薬のなかにみつかった。モナルデスはまた瀝青、石油、コハク、イオウ、鉄にも言及している。まだヨーロッパに知られてなかった野性の大麦、ヤラッパ、サッサフラス、すでにヨーロッパに紹介されたタバコ、シナモン、ユソウボク、バルサムなど最新の植物、治療や食事に重要な植物でヨーロッパに馴染み深いトウモロコシ、パイナップル、ピーナツ、ヒマ、サツマイモ、サルサなどアメリカ植物の解説はモナルデスに負っている。
ヨーロッパに輸入された薬の多くは結局、当初あるとされた治療価値はなかった。タバコ支持派(ジュアン・デ・カストロやモナルデスはタバコが頭痛、中毒、胸痛、喘息、胃痛、条虫、閉塞に使えると表明)と、批判派(レイバとアギュラーはタバコの乱用を批判するとともに人には有害だと反対)が対立したのが上記の例である。チョコレートとコーヒーでも同じことが起った。チョコレートは胃の働きを強くし疾病を爽快にするといわれ、そのため回復期に処方された。コルメネロ・デ・レデスマンの『チョコレートの特性と質』が、チョコレートとその治療適用を支持した文献の例である。支持派と批判派の対立はコーヒーの治療への適用でも頻繁に生じた。支持派はコーヒーが緊張をもたらし、強い血液循環作用を有するので眠気、無気力、粘液質に、また多血質にも有益だと賛成した。コーヒー論議にはジュアン・タリオールの著書『哲学的に討論し、年配の医師を喜ばす研究で、当世の医師のためになり、公衆の保健に有益なコーヒー・ニュース(バラドリッド、1692年)』とイシドロ・フェルナンデス・マチエンゾの『コーヒーの治療への適用に反対:身体的・医学的に討論し、年配の医師に賛同して、当世の医師や若い医師に解説(マドリッド、1693年)』がある。
ヨーロッパ社会では保健問題が大きくなっていたので、一番に喜ばれて長く人気があった製品は有効な薬であった。その第一がユソウボクで当時ヨーロッパでもっとも流行し恐れられた頭痛の種、すなわち梅毒に有効な薬とされた。ただし、梅毒の原因を医師と歴史家が検討したのは16世紀以後である。1495年にスペイン軍がナポリを包囲したとき、フランス兵の間で梅毒が流行した。フランス兵が帰国してから、この疾病がヨーロッパ中に広がった。梅毒にはいろいろな名称がつけられた。フランス人はナポリ病、イタリア人はフランス病、スペイン人はフランス病といい、あるいはガリア病のように歴史的に大流行した場所に因んで呼んだ。
伝染病の蔓延で病因解明の努力が刺激され、大へんな論争が生じた。なかでも注目された議題は一直線に並んだ惑星、健康な女性とハンセン病の男性の性的接触、天罰....であった。総体的に症状は皮膚に現われるので、中世で実施した水銀の塗布を経験的治療法として推奨された。ジュアン・デ・ヴィゴ(ジョバンニ・ダ・ヴィゴ)は水銀軟膏を調合した。これは大へんに人気があって繁用され、18世紀まで使われた。水銀は強力な燻蒸消毒法としても使用されたが、中毒の危険性が高った。患者は辰砂、獣脂(脂肪)、可燃性の樹脂を収めて蓋をした箱や樽のなかに、自分の頭を入れて消毒した。この方法は中毒の危険があり大へん怖がられた。そのうちに、梅毒は新世界からもち込まれたとの説が支持されるようになった。ルイス・ディアス・デ・イスラが論文『スペイン諸島からきた陰湿な病を治す聖なる実(1539年)』のなかで、またフェルナンデス・デ・ヴィエドの二人が、コロンブスの船員がこの疾病をヨーロッパにもち込み、スペイン兵がバルセロナからナポリに運んだという説を提唱した。梅毒のアメリカ起源説はすぐ支持者が現われて定着した。しかし、スペイン人は新世界から梅毒と一緒に天然薬ももち帰っている。たとえば聖なる木(インド諸島の丸太、ユソウボク)は18世紀まで木を削るか丸太を煮て煎剤として使っていた。この水剤は苦く芳香性で、1日3-4回に分けて内服した。発汗作用、興奮作用、利尿作用がわかっている。チンキ剤をリウマチと痛風に、またリンス剤を口内洗淨や歯痛に適用した。フラカストロ自身が、1521年に怖い病の治療計画の芽になる精霊を詩に書いて1530年に出版した。ここで登場した方法がヨーロッパ中に伝わり、輸入独占権がアウグスブルグのフッガー銀行の手におさまった。フランシスコ・ゲッラは徹底的に試験したが、医師モナルデスの症例ではユソウボクが実際に効くと立証できなかった。しかし、フッガー銀行は医師にお金を支払って本剤の使用をすすめたようだ。
よく議題になった梅毒の起源について、医学史家カール・スッドホフはコロンブスの船員がアメリカから帰国する以前に、旧世界に梅毒が存在したことを示す文書や解剖病因学的な考えをまじえながら立証した。その一方で、コロンブスが到着する前から、新世界にも梅毒が存在したことが認められている。フランシスコ・ゲッラが述べた「アメリカの発見が猛烈に流行する性質の局地型・田舎型トレポネーマ症(フランベシア・アメリカーナ)を、ヨーロッパ中に蔓延させた」という言葉が現在の見解である。
トコンとキナも17世紀にはじめて登場して以来、治療上の性質で評判がよかった。トコンはジェローム・ル・ポア(ピソ、1611-1678年)が『ブラジルの薬物(1648年)』で解説し、1672年にその植物をブラジルに運んだフランスの医師ラ・グラスがヨーロッパに紹介した。J.H.ヘルベチウス(1661-1727年)がルイ14世の息子をトコンで治療した。このため、吐剤や抗赤痢剤として評価が高まり普及した。
キナの発見やヨーロッパへの導入だけでなく、治療効果についても多くの論争があった。論争は基本的に歴史家たちの見解の相違であった。歴史界では一般に、ペルーのインディアンはキナが発熱の治療に有効なことを知っていたとする意見を認めている。ロハの王室長官ロペス・デ・カニザレスは、秘密をみつけ1630年に自分のマラリア熱をキナ皮の散剤で治した。彼はのちにペルーの総督チンチョン伯爵に夫人のマラリア熱を治療するためにキナを送った。この件については疑わしい点もある。たとえば
a)本当にチンチョン伯爵夫人だったのか、あるいは実際にマラリア熱が治ったのは伯爵だったのではないか。b)1840年に医師ジュアン・デ・ラ・ヴェガがキナをスペインに運び、スペインの薬になったのが事実ではないか。1838年にキナがスペインで販売された証拠があるようだ。キナとイエズス会の関係が広く認められている。この件に関するフランシス・ゲッラの研究は、発熱に対するキナの治療効果の発見とスペインへの導入について、つぎのように説明している。キナの木はインド諸島の現地人が寒くて震えるのを抑えるものとして、熱い液にして飲む樹木だった。イエズス会の宣教師がこの習慣を観察して、キナには骨格筋の抑制作用があって震えを減らすと考え、彼らにキナを使って寒いときに熱い液体で震えを抑え、また発熱を下げるように教えた。その一方で、キナはマラリア病原体(マラリア原虫)の分裂小体を破壊するが、これが本剤の症候学上の作用であり病因学的効果である。フランシスコ・ゲッラはチンチョン伯爵の日誌を証拠に、三日熱を罹患したのは夫人でなく伯爵で、キナに「伯爵夫人散」と命名した理由はこのケースによるものだとしているが、まったく認められていない。同時にゲッラはジュアン・デ・ヴェガがキナをスペインにもたらし、セルビアに広まったと考えている。
キナは17世紀の中期からヨーロッパ中で知れわたっていた。最初のキナ使用の記録はペドロ・デ・バルバの著作『三日熱の治療(セルビア、1642年)』であった。イエズス会はキナの普及に関係し、このためにある仲間では「イエズス会散」として有名であった。成功のおかげでキナは高価なものになった。しかし、キナを批判する人がいた。なかでもプロテスタントはローマの聖職者が支持するものはすべて反対なので、主義にもとづいてイエズス会が導入した薬の使用に反対した。キナ反対派の医師もおり、ラマッジーニ、アルベルチーニ、シデンハムら著名な医師もいたが、ガレノスの学説を信奉する医家から強い批判はなかった。マザリーノがルゴの枢機卿をキナで治療したように、ルイ14世も治ったのでキナの名声が高まった。キナはある地方で「枢機卿散」として有名になった。キナの作用は伝統的な病態生理学に反する方法で説明された。医化学派はキナの効果が小血管の粘液閉塞を溶解する作用とともに、血液の熱で起こる「発酵」とその回復作用にも基因するとした。他方、医理学派はキナが血液を希釈するからだと主張した。キナは有効であると記録され広く使用されていたが、多年にわたって大きな論争がつづいた。その議論の一部はキナの起源とヨーロッパへの導入に関する歴史的な問題が中心であった。しかし、キナやバルサムの樹皮に関して食い違いもあり、キナの木の解説にかなりの間違いがあった。キナは抗マラリア作用がない大量の粗悪品が造られ被害を受けた。あまりにも少量しか投与せず、症状の再発が頻発した。1816年にゴメス一人で、また1820年にペルティエとカヴェントーがキナ・アルカロイドを分離してキナの投与を一層有効なものとした。
遠隔地の航海という大きな問題を解決する方策もアメリカで発見された。交易路を大航海するヨーロッパ人の乗組員は壊血病に苦しんでいた。チュバ(抗壊血病性の配糖体)を含有する北アメリカ原産のニオイヒバによる治療もこの時代にはじまった。1564年にアントワープでバルディウス・ロンシェンス(
1525-1579年)も、壊血病の治療にオレンジとレモンを投与する方法を紹介している。カール・チシウス(1524-1609年)はクサイチゴ(アスコルビン酸を含む実)が優れた抗壊血病性を有すると発表した。しかし、壊血病の根絶は近代衛生学の創始者J.リンド(1716-1794年)の業績で18世紀のことであった。
新世界への航海だけが近世の薬を増加させた要因ではない。16世紀にヨーロッパに到来した東洋の薬の発見と同化は、ポルトガルが開拓した貿易によるものであった。このなかにはショウガと大黄があった。ガルシア・デ・オルタ(1501-1568年)は、1563年にインドの伝統薬から多数の薬を引用して『単一剤の検討』を著わした。
彼とクリストバル・アコスタ(1525-1593年)の二人が東洋の薬を主題にした代表的な専門家である。
16世紀と17世紀の人たちは投薬の新技術とともに、新しい植物薬の参入で当時の薬を支えた。W.ハーヴェー(1578-1657年)が実験にもとづいて、血液循環論を提唱した。血液はすべての臓器に到達した。したがって、静脈内に薬を注射する考えが生まれ、それをJ.S.エシュッツ(1623-1688年)が実行した。彼はR.ローワー(1631-1691年)の輸血可能説を知ってすぐに、人から人およびイヌ同志の輸血を行った。しかし、この輸血で原因不明の死が発生したようで、実験は中止になった。輸血はランドスタイナーが血液型不適合を解明するまで再開されなかった。17世紀にスイス-ドイツ人のJ.J.ヴェッファー(1620-1695年)がホミカ、タバコ、ドクニンジンを使って中毒学の実験をした。注目すべきである。これら薬のアルカロイドはストリキニーネ、ニコチン、コニインである。シュトークとフォンタナは薬の活性成分を同定しているが、ヴェッファーは彼らのように成功しなかった。しかし、中毒学の実験をはじめて基本製剤の生物活性を分類し、中毒学的な性質に光をあて、19世紀前半にはマジャンディーとオルフィラがさらに発展させ、クロード・ベルナールが引きついだ。このように薬は16世紀と17世紀に発展した。次章で説明するが、鉱物薬はこの章で述べたように、その時代の疾病の治療に重要な役割を果した。
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